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て病沒されたのが、其秋で有つた。併して同氏の最初の渡樺は詳かならざれ共フンベトマリに於て、漁業に從事されたのは明治三十四年頃と思ふ。領有後フンベトマリより現在の處に漁區を變更されたのである。現在の處は露領時代はカルサーコブ邦人商店、丸五家號某が漁業經營し幾許もなくして漁業權破棄した處である。併して此處を土人が、シンバヤと稱す。

(一)トウリイワナイ

 フンベトマリとチシユシ現二ツ岩との中間の小川の有る處にして、トウリイワナイの解トウリサキリと稱する鰊を乾燥するに用ひる竿の上よりサキリを下げるを以つて命名したのである。

 此處に往昔土人が居た所で有るが此處の土人が全部野寒ノツサンに引き移りたる爲め露領時代は誰も居なかつたが、野寒の流行病、天然痘に罹り全部死亡した。只一人殘りしはニヤテラアイヌと云ふが現白濱アイヌ部落に居る。此處は之と云ふ遣跡は無い故に省略する。

(二)チシユシ(現二ツ岩)

 チシユシの解チシウシの轉訛である。チシは(泣)ユシは處即ち泣きし處と云ふ意義である。只泣き處では要領を得ないが、茲に傳說に依る一說が有るのが其の稱名で有ると云ふ。