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イヌ日本名、木村愛助氏が露政廳より許可を得て漁業を此の川に又海に經營する事になり此外に(南)イタタクスナイとの二箇所を許可されたので有る。

 其處で經營するには相當資金を要するを以て凾館の漁業家吉村淸吾氏より資金を貸受て漁業を營む事となつたので有る。

 其後吉村氏は都合上該漁業權を凾館市の現代議士佐々木平次郞氏に讓つたのは、明治三十四年の頃と思ふ。併して讓漁場の營業權を木村氏は佐々木平次郞氏より、再び越後の人で河津四郞とか云ふ方に讓る事にしたので有るが佐々木氏と木村氏との間に多額の貸借關係が有り、旁々相談が容易に纏らなかつた。

 其內に明治三十七年、日露の交戰が開かれたので事其儘になつたので有る。併して此の(落帆)の漁業權は日本領と成ると同時に消滅されたので有る。其後富內村アイヌの全部が此處に新部落を設け現在に及んで居るがアイヌ部落中模範部落として有名で有る。

 此處の總代山邊安之助氏が沒して現尾山富治氏が總代と成つたのである。此部落の產業には農漁林業等にして子弟の敎育所も有り本島五敎育所の一に有り。