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の見當り次第故殺する事となれり。

 此慘狀に依り熊祭も略式に止め、彼等を搜索して射殺す事とせしに彼等の天網つきてか一人を見出したので有る。是に依つて彼を捕縛して嚴重に取調べたるに、彼は隱しきれず山間の居所迄一々犯行を申出でたので直ちに彼等の潜伏し居る山間に至り三人を見失せた外全部十三人を其場で故殺して仕舞たので皆も氣を晴らしたのである。

 此の仇討に於て同地のアイヌでポニネクアイヌと云ふは一人にて八人を射殺したと云ふ。彼は小兵の者で有るが尤も豪膽で有つた。其當時は十二連發のウエンチーオルを用ひたと云ふ。彼は邦領當時迄存命で居たが今は故人となつた。


三一、オチヨポカ(現土人部落の落帆)

 オチヨポカの解、オチエポカの轉訛にして、魚が澤山居ると云ふ意味なり。領有當時は此處にアイヌ家が一棟よりなかつた。

 併して此處の川は鮭の遡上すること東海岸中有名な川で有るを以て領有當時相濱の酋長パフンケア