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 アイヌの熊祭りは大祭で有り、又一つの大娛樂で有る。全島各處に行はる時は東西海岸のアイヌが大部分參加する。併して現富內村に會すれば遠隔の地より會する者が歸宅する迄は殆んど一ケ月以上も滯在する。又處に依りては濁酒を造ること米の十五六石も要する。西海岸野田山に於て明治三十五年の頃同地の酋長野田安之助が執行した際は白米四十俵以上も用ひたと云ふ。通例は三俵より五六俵は普通で有る。尤も其の費用は執行者一人の支出で無い、部落人全體より支出するので有る。

 此の熊祭りが時は明治二十四五年の頃トンナイチヤにも此際には餘り遠隔地より會する者は稀で有た。或一日熊祭に要すべきイナウ又はトクシとも云ふ、熊を式場に於て繫ぎ置く大御幣之は根本直徑七寸位にして二本の枝が二胯に分かれ、眞直に上に伸び地上より二十尺位の高さの木を山より伐材して來るのに若手のアイヌが山へ行き家には年寄や女小供等を留守せしめたので有る。不幸にも此日は大泊カルサーコウより脫監したる露人十五六人此留守家に入り來り哀れ無慘にも留守居の老人婦女子(一家全部)を慘殺し、食物等を掠奪して逃げ失せたので有る。

 彼の山行の連中に於て留守中斯る慘事が生じた。事は神ならぬ彼等の知る由もなく家に歸りて見れば實に目も當てられぬ慘事暫し皆の悲しみ一方ならず。今更悔ゆるも詮なきこと、其れより自今彼等