Page:樺太アイヌ叢話.pdf/72

このページは検証済みです

したがアイヌとしては仲々秀才の方で有つたのに惜しい人物で有つた。

 又今一人、津山久吉と云ふ人が居たが此人も前者と同窓生で有つたが三四年遲れて、不幸にも石狩河口を小舟にて渡らんとせしに、舟は顚覆して溢死(溺死)されたが兩者共惜しい人たちで有つた。


二八、シレトホ(中知床)

 シレトホの解(岬の意にして又岬を廻ると云ふ意味にも用ひらる)此のシレトホ附近にも昔アイヌが住んで居た。旣に前に申述べたる彼の久春內附近に於て露人の犯人を護送すべく途中にて故殺したる、勇士出崎松之助の出生地にして同氏も又前記の二者と對鴈學校の出身者で有る。

 併し北海道より、大泊經由樺太東海岸へ航海する船舶の此知床岬の通過は尤も困難の所と云ふ。

 又此附近は海馬が澤山棲息して居ると云ふ。


二九、アイルフ(愛郞)

 アイルフの解(アイ)は(弓の矢)(ルフ)は(氷)即ち(矢の如き銳い氷の意味)にして冬期海上