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 其の長男勇次郞が西海岸智來に現存して居る。露領當時は露人部落で有り牧畜專業の處で有る。

 著者は、大泊より中知床とアイルフ(現稱愛郞)間の事情に精通し居らざれば地名に依り、往昔の酋長又は部落の有力者を略記する事とせり。

 現稱、胡蝶別はコチオホイペツにして(解)コチオホイは、深き形狀の意味、ペツは河即ち、深形狀を有したる川又河の意なり。

 往昔此の部落の有力者として小蝶邊吉助氏、領有後本島に來り老朽にして相濱部落に沒命したり。長男吉五郞、次男助八の二人が富內郡落帆部落に現存して居る。

 併して此小蝶邊吉助も對鴈村に於いて、共救組合の幹部で有つた。ヤオマンペツと云ふ、處が有る(解)ヤオマン(陸行く川)の意義なり。

 此の所は嘗て明治三十七八年の戰功に依り勳八等を賜はりたる山邊安之助氏は此の部落の人で有る。

(一)皆別(ミナベツ)

 皆別と云ふ處にも昔アイヌ部落である。此地のアイヌも明治八年北海道に移住したので有るが中にも日本名、南淵卯之助と云ふ人が居た。彼は對鴈學校を卒業し、札幌師範學校を卒業して間も無く死亡