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町の山上平地に於て明治三十七年の春頃露西亞の義勇兵が荐りに練兵して居た者なり。海面には長く沖合に突出せる棧橋が有つた。諸船舶の出入度に此棧橋より荷物の上げ下ろし人員等の登降は此處に行はれたので有る。又船舶の入港の際は醫者と通譯とは必ず、本船に至り客の檢察を行ふ。兎に角此カルサーコヴは露政當時は堂々たる市街地で有つた。


二七、ポロアントマリ(現大泊)

 往昔のアイヌ部落で有る此部落のアイヌも北海道に移住し酋長にユウトルマカアイヌやテンベレアイヌ、後者は移住當時八十歲の翁で有つた健氣なおぢいさんで有つた。又感心に思つたのは余の少年時代に前述の對鴈村の河に於て鮭漁場、女場所に鮭が澤山漁獲された河邊に其鮭を積まれて有つた。其處へ翁が杖をついて、やつて來て、其杖を以て、一ツニツと二十迄數へた。夫れは日本の呼稱で有つたから、其當時の老人として能覺えたものと感服した。此の老人はポロアントマリの舊の酋長で有つて其後胤には樺村勇左衛門對鴈村に於ける共救組合の幹部にして八年前に久春內(コモシラロロ)に於て沒せられた。