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置して、婦女の製糸及製綱事業をなさしめ、學校の校庭には麻其他野菜等を生徒に耕作せしめ兒童をして農事思想を涵養せしめたので有る。又川には俗稱男場所女場所との二ケ所(鮭場)が對鴈村に在り石狩川の下に一ケ所、河口に一ケ所何れも鮭鱒の漁場にして、以上四ケ所の外海には「知狩」と稱する處に、沖地曳網(長サ千二百間位にして人員も六十人以上百人內外の人員を要する)が一統との五ケ所は鮭鱒の地曳網が有り、又鰊網としては厚田郡厚田村に中番屋、崎番屋、別狩の三ケ所で都合八箇所の大漁場が有る。併して各漁場には邦人の主任とアイヌ酋長一人づゝと船頭各一人は邦人で其他の役員は土人中より各漁場に配置するなり。

對鴈村に於ける土人の組合組織す

 前記の宅地畑地の外八ケ所の漁場と、天朝より御下賜の金三拾餘萬圓を基本として共救組合なるを組織し、事業に從事したので有るが事業も、順境に行きしも其後不幸にして、疱瘡とコレラの惡病に罹り旣に半數近くの人が一時に病沒したので有る。此時に大酋長木下智古廣氏を始め(相馬)カシンカ等の大人物も死亡されたので有る。

 此死亡者に對し組合にては對鴈村江別村の兩村共同墓地に偉大なる石碑を、有名なる僧侶の筆に依