Page:樺太アイヌ叢話.pdf/67

このページは検証済みです

にて石狩川を上り、對鴈村と云ふ處(札幌郡)に定住する事に確定し同川邊に、八百餘人が假小屋を設け暫く此處に居る事と成た。此の對鴈村に吾々より先に定住せし邦人が四五棟あつた、畠中氏渡邊氏本間氏立花氏で有つて和人と土人との併合村で有る。此村に余の亡父が對鴈村と江別村との兩村戶長を明治十三年に拜命した。初期戶長として御奉公した。併して八百餘の移住民で有つたので其當時は非常な賑かで有つた。

 又、天朝より金三十餘萬圓を下賜せられ到着翌年より住宅は建築し又道路の開鑿及敎育所の設置事務所の建設等は直ちに出來非常な忙殺を極めたので有る。其當時舊樺太アイヌ總取締役として上野正氏が時の政府の命を受け專心土人救助の爲め盡されたので有る。氏は故黑田北海道長官とは同鄕の士で有り樺太領有當時(アリキサンドル)迄通譯官として來島されたと聞いたが面會せざりしを遺憾に思ふなり。其後氏は鄕里鹿兒島に歸省されて沒せられたと聞く。誠に痛歎に堪へざる次第で有る。

 明治十二年に小學校が建設せられ土地の開拓と共に敎育方面に重きを置れ、當時の學校には對鴈學校當時の北海道長官黑田閣下の直筆にて、「富貴者苦學在勞力」と書されたる額が揭げられて有る。

對鴈村に於ける舊樺太土人の事業

 繼營諸建築は荒々終へ各戶に宅地畑地を與へられ同時に製綱所を設