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艦長マキシム氏外水兵二十名、負傷兵が居て水兵の大部三百何十名は、陸路榮濱當時は柏濱ドブキーを經て內淵には露兵官舍あるを以て同所に四日程滯在して北方敷香方面に向つたので有る。

(二)栖原當時のハツカトマリ現山下町に於る漁業の狀況

 明治初年の栖原氏の漁業經營當時、此ハツカトマリには何十個の鰊釜を備付、鰊の大漁業に從事したのである。當時の事業として大したもので有り從つて、設備も完全であつた。


二六、トマリオンナイ(楠溪町)

 栖原當時には運上屋あり、此處には番人(幹部)が越年して居る。或年露人が此の運上屋に來り煙草反物等の物品を掠奪した。越年の事でも有り二人や三人の人では如何ともする事も出來ず其儘にし置たりと故老の話しで有つた。此處の酋長はチコヒロ日本名木下知古廣氏で有る。又有志には相馬カシンカ氏も有名な人物で有つた。トマリオンナイの解(入江)オンナイ(中)內との意義で有る。此處もハツカトマリと共に伊達、栖原の大漁場で有る。時の酋長木下知古廣氏は、明治八年、樺太南部アイ