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は甚だ嚴重にして各露人の村落には四人に對し、ネテーリ一週間分として、アテン、メール邦量約三合五勺を部落總代が一週間度に部落人を代表し部落監視官の證明を得て再び長官の署印を受け、官設商店より現品を受取るので有るが余も一部落を代表(土人に下附するは量に制限がない)ので受けるに長官官舍に至りし時、其折り長官は双眼鏡を以て邃く室內より出で來り、大變で有る今沖合を双眼鏡に依り遠望せしに、日本の軍艦が二三隻此沖に見える、早く各官舍へ電話を以て退却の凖備をする樣旣に通達したので有つた。

 折しも居合せた一土官が長官の双眼鏡を一寸拜借して沖合を暫く見て居たが彼曰く何だか船體は判然しないが、白い帆の樣な物が高く見える。能く見渡せば軍艦に有らずして白帆に風をふくらし中知床方面に走つて居る密漁者の二、三の帆前船で有つたのが判明したので其處に居合せた人々は大笑ひし、一滑𥡴を演ぜられたので有る。併して前に通知して退却凖備の馬車に積載したる荷物は再び元へと運ばれた。一時は大騷ぎで有つたが皆も大事に至らずして一安心したので有つた。

 明治三十八年日本軍が上陸の際は高位の者は皆ナイラニ(大澤)又ナダーリネ(軍川)に旣に退却せしも殘留の露人は非常に狼狽したものと思ふ。同年八月の頃當時此沖に沈沒したるノーウエク艦の