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アイヌの住居した所なるも明治八年附近のアイヌと共に北海道へ移住せしより、露人は此處に燈明臺を設け明治二十八年頃は此處に燈臺守衞兵(露人)が五六人居た。

 余は明治二十八年八月北海道石狩より十五人の團體にて(皆家族と共に)二隻の大形漁船に分乘して、北海道宗谷に四五日滯在、此宗谷には、元明治八年樺太南部土人が、北海道へ移住の途同年此處に越年したる關係上大部の舊知を有したる爲歸島に際し、久しぶりにて此處に、滯在し好日和を見て出帆する事にしたので有る。併して愈々好日和になつたので同地を出帆し夕方に此ノツトロ岬に着し同夜此處に野宿したので有る。此ノツトロに着くと皆が物珍しく海岸を步き廻る內、大きい海馬が三頭濱邊に死んで居た。何にも當時は無人の個所で有つたから誰も拾ふ者なく數日を經たる物と見え皮肉共に腐敗して有つた。

 翌日は此處に滯在し其夜僅か長さ五間ばかりの小さな曳網を引いた處が(キウリ)(コマイ)(カヂカ)等の小魚が澤山取れた、皆が大喜びで早速調理して食べた。とても北海道では長さ五間ばかりの網では魚を獲ると云ふ事は吾々の居た石狩では夢にも見られぬ事で有る。併して吾等は、十五人の團體墓參の旅行免狀を時の陸奧外務大臣より各一枚づゝ下附を請け携帶したので有る。其翌日になつて燈