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であつた。

 此の事件も事件なれど私の最も感心したのは、彼の小使さんであつた、辨當差入後家外に出で歌で報吿するとは感心な人だとアイヌ仲間の評話なり。此話は明治三十二年六十歲のアイヌ老人久春內の酋長チウカランケの實見實話である。


一七、海馬は西海岸に多し

 海馬は西海岸に多く又海馬島は西海岸眞岡に面したる小島にして此處に多く、生殖するを以て其名あり。往時マウカ附近のアイヌ人が每年、年中行事の一として年に二回春秋「バイセン」と稱する大形の漁船にして、百五十石位積載する船に三四十人位乘込み海馬獵に出掛るので、其都度、滿船し歸航するのである。而して、其捕獲したる物を全部各〻に配當するなり、其肉は鹽付となし油と共に食す。

 邦領以來彼の地に邦人の村落を設けられ從つて、海馬の稀薄たるを以て漸次捕獲するものなしと云ふ、此海馬は西海岸のアイヌ人の重用食肉となしたり。西海岸には現在土人の敎育所としては「多蘭泊」と「智來」で有る。樺太廳の保護の基に指導宜きを以て、敎育の進步增々見るべきもの有りて兒童の成