Page:樺太アイヌ叢話.pdf/43

このページは検証済みです

 明治八年邦人樺太を退去してより幾年も過ぎずして內地及び北海道方面より漁業者の續々來島し從つて日本領事館も設立され西海岸眞岡附近は邦人の柳谷氏、露國人のセメノフ氏、英國人テンビー氏の兩氏及び邦人の森高氏と共に重に鰊の漁業經營を大々的になしたり。

(一)東海岸にありて

 東海岸にはミナプフ(南)の邦人西村氏アイロプの相原氏中部の笹野氏同若山氏及吉村氏等先進を以て來島し、所謂建綱業を經營したのである。それより引績き來島したのは西海岸泊居附近の大內氏及び宮島氏並に岡山氏等と共に米村氏であつた。

(二)久春內附近にて

 久春內附近は露人ビーリチ氏邦人の中瀨捨太郞氏と共に又東部の內山吉太氏東海岸の佐々木氏並に林氏等は露政當時の樺太に第一着二着の人々である。漁業權は勿論露政廳が行うものであつた。

 前述の如く土人は伊達栖原當時より多少は米食に惠まれて居たのであつたが、露政當時と雖も前記漁業家の受持區域即ち其漁場附近のアイヌ部落を愛護した爲アイヌの衣食には不自由なくパン米麥の食を得られたのである。