Page:樺太アイヌ叢話.pdf/29

このページは検証済みです

一、樺太島南北土人の呼稱

 樺太島は昔よりアイヌは、(カラフト)と稱し、北海道アイヌは、「カラツト」と呼び、內地人は樺太と稱す。幕府時代も呼稱は同樣なるも、漢字にて唐太及び樺太と書する者大半に及び、而して復領後は樺太と書するも故なきにあらずして樺太と書しカラフトと呼ぶ。此樺太には古より南北に分ち土人が住んで居た。一は南西より海岸一帶西北ウソロ迄アイヌ人の定住と、南東より東北タライカ迄の海岸一帶とは、何れもアイヌの定住して居たのである。西北ウソロ以北に、ポロコタンと稱する所にレブナイヌ(解)レブンは(渡り)ナイヌはアイヌの意義にして、此のレブナイヌが住んで居ると言ふ。此の渡りアイヌの意義は何れの方面よりの渡來か著者の苦解とする所であるも、何れアイヌ種族の一部と察せられる人種が住んで居り、又東北部タライカ湖の附近及びシシカ川(幌內川)の河畔と、其上流にはアイヌの稱する「オロツコ人」と「ニクブン人」の外に「キーレン人」明治八年迄只一戶存立現在も同樣と想ふが、住んで居る。

 露國人は(オロツコ)又はオロチヨン、ギリヤークと呼びアイヌをアイナー又はアイノーと呼べり。