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は何んと云ふか、ハイ私はバフンケアイヌ改名木村愛吉と云ひます。そうか夫れでは吾々歸艦の上追て何んとか、損害金の沙汰があるだろうと云つて別れたと、木村氏の話であつた。

 然して木村氏の家は當時露西亞式の大建物であつて領有後、此處に樺太廳より、驛締を申付けられ相川渡船を兼ねて營業して居たのである。其後愛吉氏が沒して二代の愛助が此の家を他人に賣却して仕舞つたのである。併して露領時代及、維新當時よりナイブチ川の右岸に露人の官舍と倉庫が三棟其他二三の建物があつたが、敗戰の爲め全部燒拂つて退去したのである。

 其當時官設建物其儘であつた處は、ウラジミロフカとガウキノウラスコエは寺院の外二棟で一棟は學校として新築したが戰爭中一時其れを假獄屋としたのを、領有後、豐原支廳、出張所として榮濱元相濱に移され、現在榮濱村役場として使用されてゐる。

 記事は後に戾るが軍艦二艘の內一艘は內淵に碇舶し、一隻のボートに五六人の士官が乘り込み陸に向つて漕いで來た。折柄榮濱の露人商人等が內淵川に漁船を入れ、今頻に品物を積んで逃げようとして居た處へ其ボートを見たる露人は荷物も船も其儘置き去つたのである。其時居合せたのはアイヌ丈で有つた。其內に余の弟山邊淸之助とチウコイレアイヌとであつた。ボートが岸に着くと將校が揚つて