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は覺えて置く必要があると考へた。若し互に言葉が通じなかつたなら、余を無言で其處を通過させなかつたか知らん、尤も余の小兵と長鬚には彼は何度も見覺があつたに依らうが、何れにしても危い處であつた。

 夫れより段々步を進めて來ると、又二人の乘馬露兵に出會した。彼等は此前に十人斗り行かなかつたかと問ふたのみで直ぐ別れた。併して眞縫に着いたのが午後一時頃であつた。此處で前述の如く、大泊に日本軍が上陸し、漸次ドプキー(現榮濱)迄進軍した。と云ふ事を聞いたのであつた。

 其時には余の家は、內淵村にあつたが家には誰も居ない。隣家には三棟(余の弟も居た)家があり余は小田寒に家族全部と共に居た。其當時軍川(ナターリニエ)より、木村愛吉氏が歸宅して今、豐原で通譯が不足で困つてゐると云ふから、余は早速行く事にして、豐原(ウラジミロフカ)の指令部(日本軍)の糧食部附となつたのである。


五九、日露交戰當時の雜話

 明治三十七年七月の頃、日本軍艦二艘東海岸に廻航し、相濱部落を砲擊す。當時余は小田寒部落に