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は久春內と眞縫の間で露兵に會ひ、其處で彼等の爲めに殺ろされるかと思つたが、幸ひ無事に通過したのである。

 余は明治三十八年の夏、年來の戰の爲め賴みにしたる(邦人漁業家も來ず)米食に馴れたる我等にはパンのみでは凌ぎ難く、聞くに西海岸久春內以南は日本人の密漁者が、米、味噌其他の日用品を川崎船(漁船)に積込來島する者續々ありと云ふを聞いた。よし之から西海岸に至り、此地には北海道石狩より來りし知己の者も澤山居る。行きて彼等より買受又は買求めんと出掛け(野田寒)附近に至しに此處にて知人に合ひ(淺海甚九郞)と云ふ知己の夫婦が居た。彼は鰊を漁し邦人密漁者に賣り米二十俵も所有して居た。早速話して三俵を讓り受け、磯船を以て泊居迄積んで來たが一つ困つた事には久春內の山道の運搬である。越年なら犬橇で運搬も出來るも、夏の運搬には夫れも出來ない。餘義なく其米を雲良卯助(石狩の知己)に預け單身一先づ歸宅する事にし泊居を出立したのであつた。久春內を經て山道を奧へ奧へと進行した、其處で折惡く出會したのは、露人の乘馬兵十名斗りであつた。其內何か一癖ありさうな男が、余に發言した、余も何糞と思つて彼の顏を目玉の拔ける程見つめた。

 處が何ぞ圖らん、彼は四五年前カロサーコウの役所で長官補佐官であつた。當時アルコール買求の