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務を執つて居たのであつた。併して長官、司令官、ノウエクの艦長マキシム等の高官は(皆ナダーリニエ)軍川に退居したのは其冬三十七年であつたと云ふ事、軍川に入るを以て自分聞取たる一片を記す。此ナターリの交戰は南樺太に於ける激戰であり、西久保中佐(當時少佐)も名譽の戰死を遂げられた事は世上の周知せられる處であるが、其時の激戰に有馬大尉の戰鬪(豪膽)振りには、時の兵士等も感心し話し合つたのを余は聞いたが、其後有馬大尉の事は樺太戰史にも載つて居ない樣であつた。大尉は慥に當時の戰役に參加した筈(暫く)カウキノウラスコ(落合守備隊長として)就任された筈であつた。余は樺太戰史(伊藤貞助氏の著書)に大尉の參加を揭載されなかつたのを、樺太戰史の爲少しく物足なく感じた。

 併して軍川の戰利は我が皇士の奮鬪に依り占領せられ、同時に敵の司令官行政官、マキシム艦長等が捕虜となり送られたと云ふ事を、當時前凾館の代議士內山吉太氏が竹內閣下よりの命に依り、樺太に臨時露語通譯雇の爲め、酋長木村愛吉氏や內藤宗太氏等が一時同所に至り歸村しての話であつた。其當時余は用務旁々西海岸に出張中であり歸途、眞縫に於て、露人の北部(久春內)を經て行く者が多かつた。彼等より大泊に日本軍が上陸し(ドブキー)柏濱迄日本軍が進軍して來たとの話を聞いたのである。余