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るのである。豚は多く鹽漬けとなす。併して彼等は共同生活である。故に何處の家を訪問しても知己にも初對面の者にも必ずパンと砂糖を以て迎ふるのてある。

 彼等には夜具(布團)はない。入らない筈、家の構造は耐寒的に出來て布團等を着て寢ては、蒸て死んで仕舞ふ。其變り毛布と羽布團(二尺四方位の鳥の羽根を入れた物)を枕に用ゐる。其家に依り其形は丁度日本の座布團樣な物である。家に羽布團多き者は富者なりと云ふ。


五七、各部落擔任の行政官

 然して之等農村其他の部落を監視(擔當)する人は豐原に、(シマテリテクユウ)露人部落監視官が居る。依て部落に關する事は此監視官の許諾を得て、長官に訴へ出るのである。併して此カラスナレーチカ(豐原當時呼稱)は本島に於けるカルサーコウに次ぐ第二の市街であつた。


五八、日露交戰中東部に於ける雜話

 明治三十七年末、日露交戰中カルサーコウより行政事務をナエラーニ、(唐松)に移され一時此處に事