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其支廳長として赴任されたのは軍政當時より、樺太廳官吏として永く奉職された。成富淺一氏夫人と令息(幼兒)は布に包まれたる儘海岸に打ち揚げられ一命を無事に助かつたが、夫人は死亡した。夫人は當時の豐原支廳長神代澤身氏の令孃で有り誠にお痛はしき事であつた。又樺太調査部長猪狩卯三郞氏及樺太廳林務技手橫山氏も同じ御災難にあはれたのであるが、惜しい方々であつた。此外氏名不詳者十七八名あり。然して此のシシカ川を領有後(幌內川)と呼稱せられ、南樺太の河川中尤も大河であり併して鱒、鮭の遡上夥しく昔より、大和船は自由に出入し河岸に繫留されたのを見受る。此の地は年々開進され將來益々發展し有望なる地である。

(一)タライカ

 タライカの(解)山越と云ふ意味で有る。此山方にタライカ湖が有る。海岸タライカに出るので有り依て命名したので有る。此處には露領時代迄三棟の土人(アイヌ家)の家が有つた。此處の酋長の後裔には甞て、南極探險隊長白瀨中尉に山邊安之助氏と隨行したるシシランアイヌ改名花守信吉が此處の總代で有つた。邦領後大正六年の頃、殺人犯に依り花守信吉豐原地方裁判所に護送せられ、其後消息がない故に病死でもしたのだと云ふ。併して此タライカ川も南樺太の河川中、大きい方で有る。又湖