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 併して露領當時は露人丈此處に多く居た。電信局も此處にあつた。海岸にはカレマレンコ露人が漁業經營の漁場があつた。彼は西海岸のデンビー氏や、久春內附近の勢力家ベーレチ氏と此の三者は樺太當時に於ける異人の漁業家勢力家であつた。

 併して當時アイヌは此處に居なかつた。シシカ川を少し上るとサンタやニクブン人の家があつた。其當時本島領有後二年目即ち明治三十九年の頃余は樺太廳高等通譯官秋元義親氏や北海道農大校の茅部氏及南氏の兩先生和田、栃內、柳川の諸官と榮濱港より御用船に乘じて、夏期のシシカ方面に航海し、當地の狀況始めて判つたのである。

 併して先生方は敷香川の上流迄(其當時の夏は蚊は澤山出た)蚊軍に攻められ乍ら終に同地の調査を終て歸廳されたので有る。

 此の敷香にも一慘事が起きた。夫れは大正三四年の頃と思つた、シシカ川の川口の沖に定期船が着いた其時の來客敷香に上陸すべき客が、浮船に乘り移り陸岸へ船を漕ぎ出したる途中折柄、大波浪が起り突然大浪が岸に强く打付けて船は直ちに顚覆して、あはや乘客全部海中に、落され、哀れ乘客全部溺死されたと云ふ。此の悲慘なる最後を遂げられたる乘客中、重なる氏は當時始めて支廳を設けた。