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な事と思つた。
五三、ナヨロ(內路)
ナヨロ(解)川の奧に入れば、澤有り小川澤山あるの意味(ナヨロ)往時、露領時代は南に露人部落があり、北にアイヌが住んでゐた。
南方の露人部落には當時、知取と同數位の人家があつた。余が其處へ行つた頃は明治三十七年の冬日露戰爭當時であつた。其當時は此處に電信局もあつた。聞くに露領アリキサンドルに行くには此の內路より新道があり近道だと云ふ事である。
併してアイヌ部落には其冬越年家(穴居家)があつた。此の部落の有志にタムシベアイヌ、モシノツアイヌの兄弟、其當時酋長ワリランアイヌであつた。甞て明治四十二年一月樺太第四の長官平岡定太郞閣下が全島土人にニレネナイ、ニイトイ、シララカ、ロレー、オチヨポカ、タラントマリ、クメコマイ、ドープチ、チラフナイ、ポロトマリ以上拾ケ所の漁場を土人に選定されて、此漁場を邦人の樺太優先漁業者に貸付し、其貸付料を以て土人の財政を圖られた。其時の全島土人代表者に指定された