Page:樺太アイヌ叢話.pdf/116

このページは検証済みです

があつて電信局もあつた。此の地も露人の農牧を以て生業としてゐた。而して地名シルトルはシリ(行程)ウトル(間)卽ち村と村との間を稱したのである。又シリは(天候)と云ふ。然共又原(シリ)は村と村と稱したのである。


五二、コタンケシ(古丹岸)

 コタンケシの(解)コタン(村)ケシ(端)又は殘りの名詞卽ち村の端の意味なれ共何村の端なるか不明である。然れ共名稱は前記の如し、此コタンケシは昔よりの土人部落である。併して此處には露領時代土人家三棟程あつた。酋長にはシトリンカアイヌと云ふ。此處のアイヌとして、牧畜を營む者は稀で有つたが同人は牛の五六頭も飼養してゐた。總て牧畜の事業などと云ふ事は綺麗好きでは出來る仕事でない。併し此土人は、シトリ牛馬と同棲する位であつた。否いくら土人でも獸類と同棲はしないが彼の家に續いて馬屋があつた。或年他のアイヌが其處に居合せた時、突然馬は家の橫板を破つて其處から長い首を突出したのでアイヌ間の評判となり、馬と同棲し居たと云ふのであつた。左ればこそ牛馬の拾五六頭も飼養するに至つたのである。當時のアイヌとして、貯蓄思想を持つた彼には誠に感心