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ズラーテリ監視人一人の外土人が五人と、皆で六人が銃を持つて、彼等を追跡した。處が彼等は今、しきりに晝食準備中であつた。併し彼等には逃走の途中(邦人の漁場に侵入)して村田銃一挺を掠取したので有る。故に、監守員の土人に命ずる處我等は密に、しのび行き成る可く彼等に近寄て一聲射擊に打ち出すべし、左すれば、彼等は狼狽し逃げる處を追擊すべしと命じて進んで行き、今だと皆が一齊に打ち出すと敵はそら危ないと逃げ出した處を(ドン)續け打ちに連發するから、たまらない、終に十一人を其場で打ち殺して仕舞た。一同凱歌を揚げて歸宅したと云ふ事を同地の土人が明治三十六年頃の事だと話て居た。樫保の土人惣代アサワアイヌ(當時の酋長)ヌボホアイヌは眞縫の總代ハルカアイヌの弟であり、アサワアイヌは元泊の土人である。

 又此處の敎育所の駒井氏は大正十年の頃一寸休職したが其後任に、北海道の土人武隈德三郞氏が就かれたが幾何もなくして辭職され北海道へ歸られたと云ふ。現在は邦人に依る小學校を建設せられた。


五一、シリトル(知取)

 往時は樫保と知取間は人家は無く、カシボは土人、シルトルは密林の中に露人の家が二十戶位の村