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ゐる。元此の部落の土人總代は邦領に歸してソヲコンデアイヌが此處の惣代であつた。

(一)フヌフ

 フヌフの(解)フヌフとは低き濕地の稱である。此處は昔より土人が住んで居た。其後漸次他に轉じたと云ふ。露領當時此處に只二棟あつた。

 此附近の酋長として昔より有名な領有後土人總代であつた、イボフネアイヌが此處の土人である。而して昔は元泊やフヌフは鰊が三尺も高く寄せ揚げた物だと云ふ。露領時代はフヌフとシリトル間はカシボの外人家はなかつた。而して此間は一面に密林地であり、冬期の交通困難の所であつた。


五〇、カシボ(樫保)

 カシボの(解)海岸の少しく高き所を命名したので有る。昔は三棟より無つたが、邦領に歸して戶數が漸次加はつたのである。大正七八年の頃戶數(土人)も十棟餘となり土人敎育所を設置され當時の敎員は駒杆氏が擔當されて、土人の敎化に勤められたので兒童の成績も良好である。

 此樫保の山に露領時代カラサーコヴより脫監した露人十一人が此山奧に隱れ居た。其處へ露人ナ