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四五、ワーレ(輪礼)

 ワーレは、維新當時會所の所在地であつて役人が此處に駐在し、土人も此處に居た。其當時白浦の元土人總代白川茂右衛門氏の父も此處に住居して居た。此處の「船澗」は深く船舶の避難所として尤も適當の處で有る。又鰊の群來する事古より有名な所で有る。夫れに續いてオハコタンも鰊場として何れも鰊鱒の漁は昔より良漁場として知られてゐる。然して此「ワーレ」は露領當時笹野榮吉氏は、渡樺者中の尤も早く、氏の所有大和船を遠き內地より、直航、此の(ワーレ)に來着された後に白浦と此處の漁業を經營されたのである。當時、凾田や眞縫、白浦等の土人が此の笹野氏の慈惠を受けたのである。

(一)チトカンペシ

 ワーレより程遠からぬ所に小岬がある。其崎の少しく內に古アイヌが弓の練習した處で其名あり、チトカン(弓を射る)ペシ(巖窟)即ち弓を射る所がある。此處は只弓の練習所なるを示したのみ他に何等の遺跡なし、而して白浦には同川より二町程北にアイヌの古戰場(アイヌ同族戰)がある。