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 此眞縫川も夏、鱒漁期に至れば夥しく鱒の遡上する處で有る。邦領に歸して此川の上流に西海岸の智來や久春內(コモシラロル)の土人が鱒の燒き干しに來ると云ふ。

 明治四十一年の頃は竹田氏は此處に驛締兼の旅館を營み、其後に、木俣惣七氏篤志家が漁業を營み現今益々發展し來り此地も將來有望の地である。

(一)オハコタン(凾田)

 オハコタンの(解)其名の如く穴村である。露領時代は此處に四棟程アイヌ家が有つた。其後他に轉居したので有る。此處は彼の眞縫の土人惣代ハルカアイヌ及トトサウアイヌ其他ハルカの弟二人都合四人であつた。併して此部落の有志はトトサウアイヌである。

 此のオハコタンは大正四年の頃から不幸が續いた。其年の越年にトトサウの家が雪崩れがして家が倒潰し婦人一人慘死した。

 大正八年の八月末、內淵川に鮭漁の爲め漁船に婦女子を乘船せしめ廻航の途中、大時化にあひ船が顚覆して十一人のりの內三人助かり、八人は榮濱沖に溺死したので有る。夫れより此オハコタンは再び(オハ)穴(コタン)村即ち穴村となつたのである。