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 マーヌイの(解)マー(泳ぐ)ヌイ(渡る)往昔此處に渡船なきを以て折々、此川を泳いで渡る事あり仍て其名を付けたるなり、併して元の土人部落は川の左岸にあつた。露領時代に成りて、ハルカナアイヌ當時の總代の兄弟三人が轉住して、此川の右岸に住し邦領に歸して樺太廳より渡船營業を開始したのである。

 此眞縫の舊家として、ソヲコンテアイヌが居た。露領時代川の左岸の高地に露人の大建築物が一棟あつた。余の其家に立寄つた頃(明治三十年)は其建物が大分傾いて居て老人の夫婦が居た。彼の夫婦は非常に親切で「パン」や御茶を出して吳れ御馳走になつて來た事があつた。

 其當時余は久春內に居た當時で有つたから、東海岸に出るには其處を一つの休息所の樣に老人夫婦を訪問すれば非常に嬉しく迎へて吳れるのであつた。後に聞けば此建物は元露兵が駐屯して居た所だと云ふ事である。現學校は其處である。當時アイヌ家は左岸に三棟あつたが其後他より轉じ來る者有りて左岸に五棟と右岸に一棟あつた。

 此の左岸には凾田より轉住したる老人で其當時盲目であつたが仲々、日本語は流暢で有つた其名はトヤツテアイヌと云ふが彼は其後此川の渡船營業を樺太廳より命ぜられた。