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 右之兩氏は生前帝都(東京)迄行つた事がある。併して茂右衛門氏も少年時代は時の役人に奉公したと云ふ。此白浦も維新當時會所があつたと云ふ。樺太の漁業王とも稱せられる笹野榮吉氏は最初樺太に來りし當時白浦や輪礼の漁場を許可した頃は、茂右衛門氏も相當漁場の選定に盡力されたと云ふ。併して當時は白浦川の南方、現川上松藏氏の旅館(支店)の附近に露人家屋拾五六棟の村がある。電信局も此處にあつて西海岸眞岡附近又ウソロ以南の者にして、カルサーコウへ電報を發する時は泣ても、ほいても此の白浦電信局迄來なければ用向を達する事は出來得ないので有る。

 此の白浦は古來より鰊の大漁業場で有り現今に至るも、不漁なしの大漁場である。邦領に歸してより藤井篤太郞氏は此處に驛締を營む。又藤岡氏等が最初の定住者であり現在に及んで居る。

一、シンノシコマナイ(中濱)

 シンノシコマナイの(解)シララカ(白浦)と(眞縫)との中間に在るを以て其名あり。此處は露領時代より、笹野氏の漁場であつたが漸次鰊も獲る樣に成つたので有る。


四四、マーヌイ(眞縫)