Page:樺太アイヌ叢話.pdf/105

このページは検証済みです

ペケレ(邊計)

 ペケレの(解)ペケレは川端の濕地を名稱したのである。ペケレ川に續いて今一本の小川がある。昔土人が此處に住んで居た。露領時代は邦人が此處に建網を許可され漁業を營んだが其後漁業權を取消され明治三十一二年頃は只漁場の建物骨組丈が殘つてゐた。

 此處には別に舊跡とてはなし。


四三、シララカ(白浦)

 シララカの(解)平磯の意義にして汐干には平磯が出る。即ち(平磯)を名付たのである。川の少しく北方にナイコトロと云ふ所あり其處に白濱の評議員故白川磯太郞氏の家があつた。夫れに續いて家が二三棟建つて居た。現學校の處が、前白浦土人惣代白川茂右衛門氏の家で有つた。甞て坪井理學博士が來島された時此白川茂右衛門氏に、一句の書を進ぜられた。上の句は忘たが下の句は「いなうの沙汰もしららかの山」と云ふのであつた。

 此茂右衛門氏も小田寒の六助氏と同輩であり、東海岸に於ける有名な人であつた。