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る矢を拔かんとしつゝ逃げ出す處をテクフンカアイヌは彼を海に追ひ込み、陸に揚らんとする處を第二の矢を進ぜたので、彼は終に絕命してしまつたので富內部落の敵討も此處で終りを吿げたのである。


四二、ボロナイ(保呂)

 保呂も昔土人の住んで居た處、漸次他に移つて露領時代土人は居なかつたが邦領に歸して東白浦の元土人總代白川光右衛門氏が此處に鱒漁をして居た。露領時代此の(ボロナイ)に露人が七八戶住んで居た。彼等の產業は主として農牧畜で有る。併して海岸に露人が七八棟も部落をなして居るのは、稀である。

 此地は地味肥沃にして農業に適するを以て將來有望な所で有る。明治三十七年の秋本島に在住の露人の大部分は本島を去り、本國へ歸る者多きに至る。獨り踏み止まりて此の「ボロナイ」に住する一露人ありしに大正十二年頃、自己が飼養し居る只一頭の牛の爲め突き殺されたと云ふ。

 領有後に內藤兵作氏此處に驛締を設け現在に及んで居る。併して「ボロナイ」の地名(解)は東白浦より小田寒迄の間に有る小川の中のやゝ大にして鱒も遡上するを以て名付たるもので有る。