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四一、マトマナイ(眞苦)

 マトマナイの(解)此川の奧に野生植物にして(トマ)と云ふ食物ありて(根を食ふ)六月頃之を採取して食用となす。此トマは、此川奧に澤山ある。之を命名して(マトマナイ)と云ふ。

 (マ)は(マハ)の轉訛(マハ)は奧なり、此處も昔より有名な所で有るが、露領時代は川の南方即ち、小田寒附きの方に土人家屋が二棟あつて其少しく南方の林にトイチセ(土家)穴居家に、宿つた。其頃穴居家に間近き處に墓地が有つて道路に接近した所である爲め、往來の土人は此墓地の處に休息して煙草を、此の墓地の方へ少し上げる。此墓地は昔相濱、小田寒等の人々(土人)の先祖を此處に葬つた所だと云ふ。

 露領時代は此二棟の家主は兄はオタツコンアイヌ弟はセントルケアイヌの兄弟前相濱の稿に記載したる木村愛吉氏の相續人(現在)木村愛助氏が前記の兄弟が其の伯父で有る。

 然して此の二棟の家に一大慘狀を演ぜられた。時は明治三十四年五月此兄弟と其他四人の內三人は其近親者他の一人は白浦の土人、都合六人が一艘の丸木船に便乘して沖合に海豹捕獲に出漁した。