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つたのである。之も六助氏の親切の致した處で有る。

 翌朝(オムナイ)小田寒川の近くの叢より人の這ひ上りたる形跡を見止た者あり、早速部落の者等行つて見るに、彼の昨日射擊を受けた、負傷者の一人で有つたので土人が、背をふて部落に連れ行き應急の手當をなした。此時は六人の內三人死亡三人は負傷して直ちに落合軍醫の治療を受けたので有る。

 當時余は(千德太郞治)ウラジミロフカ(豐原)の日軍の糧食部に附いてゐた。其節白浦の土人が全部露人の爲めに慘殺されたと、聞いたから、直ぐ落合に(ロレー)の內藤宗太と(タコイ)の土人二人の處へ照會した所が、白浦でなく、小田寒の出來事が判明した。

 併して余の家族も其當時四棟(小田寒)の北端の家で有つて家族皆逃げた爲め、著者の書類露書少しと小供の敎科書二三册、是れは彼等が煙草の卷紙に用ゆる爲め、持ち去つたので有る。其他は別に變はりはなかつた。

 前記六助氏の少年時代、木村愛吉氏や余の(著者)伯父と共に維新當時、樺太島榮濱や白浦詰めの役人に使はれ、日本文字の片假名を習つたと云ふ。