Page:成吉思汗実録.pdf/369

このページはまだ校正されていません

は、蒙古の喀喇 科嚕木にして、鄂兒歡 河の右岸 卽 東岸、喀喇 巴勒嘎孫の東南に在り、卽 元の和林 城にして、今の額兒迭尼 租なり。蓋 太宗の和林 地方に都︀を定むる時、和林の近傍にて地を擇び、新に宮城を作りて、斡兒朶 巴里克と名づけたるを、和林は五百餘年の舊都︀にして、合喇 豁嚕木の名は殆 都︀と云ふに同じく聞ゆるが故に、蒙古人は、斡兒朶 巴里克を合喇 豁嚕木と呼びて、遂に同名の地 二所あることとなれるならん。元史 昔都︀兒の傳に「黑城 哈剌 火林 之地」とあり。黑城は蒙語 合喇 巴勒嘎孫を譯したるなれば、この名は已に元の時より有りしなり。黑城 卽 合喇 巴勒嘎孫は、舊城 廢墟の義なれば、その名を哈剌 和林の上に冠したるは、新しき哈剌 和林に別たんが爲なり。偰氏 家傳は、回紇の國相の後裔の事を述べたるものなれば、その和林は、回乾の和林 卽 喀喇 巴勒嘎孫を指せること論なし。張德輝は、塔米兒 河の西北なる世祖︀の潛邸の地に赴きて、和林の都︀には立寄らずと見ゆれば、「自泊之南而西、分道入和林城、相去約百餘里」とある和林 城も、回乾の和林なるべし。耶律鑄は、元の和林の地に成長したれば、その和林と云へるは、皆 元の和林にして、記載 最 精︀確なり。その「和林城、苾伽 可汗之故地也」と云へるは、元の和林は回紇の和林の近郊なるが故にして、苾伽 可汗の故宮とは異なり。その「城西北七十里、有苾伽 可汗 宮城遺址」と云へるは、方位も距離も善く合へり。「城東北七十里、有闕 特勤 碑」と云へるは、距離も近すぎて、方位も稍 違へり。喇篤羅甫の鄂兒歡 地圖に據れば、東北に非ずして、殆 正北なり。

雙溪 醉隱 集

又 雙溪 醉隱 集に、騎吹曲の辭なる白霞の詩の注に「白霞在和林 西、」後の凱歌の詞なる崲峹の詩の注に「崲峹、地名、在和林 之西南、」伯哩行の詩の注に「伯哩、山名也。遜多 伯哩 者︀、卽此。遜多、亦是山名、皆在和林之西南。崲峹 亦在其南、丁丑冬弄邊者︀軍敗之地也」などあるは、今のいづこなるか知らず。戊辰 己酉 北中 大風の詩「富貴城西畔」の注に「和林 東北 斜連柯 河 有古城、唐賈耽地志所謂 仙娥 河 富貴 城者︀ 是也。仙娥 河、今聲轉爲錫蘭 河」とある斜連柯 河は、今の色楞格 河なり。寬甸 有感の詩の序に「和林 城有遼碑、號和林 北河外一舍地寬甸、廣輪可數十百里、列聖春夏遊幸所也」とある寬甸は、怯堅 察罕の地の雅名なるべし。和林 北河は、和林 河の下流のことか。和林 城の北には、近き所に河なし。達蘭 河の詩の注に「河名也。在和林 北百餘里」とあるも、確ならず。金蓮 花甸の詩の注に「和林 西百餘里、有金蓮花甸、金河界其中、東匯爲龍渦。陰嵒千尺、松石騫疊、俯視︀龍渦、環繞平野。是僕平時往來漁獵遊息之地也」と云ひ、又 金蓮川の詩もあり、紅叱撥の詩の注に「余避暑︀所、川野無金蓮。金蓮川由是得名」ともあり。金河は、鄂兒坤 河の雅名ならん。和林の西 百餘里は、正しくは西南にして、鄂兒坤 河の上流の地なるべし。大獵の詩に「禁地圍場、自和林 南沙地、皆浚以塹、上羅以網、名札什、實古之虎落也。比歲大獵、特詔先殄滅虎狼」とあるは、多遜の翁奇の圍場と作り方は異なる樣なれども、必 同じ處ならん。この外 和林 又は和林の近傍の事に渉れる詩 甚 多く、蒙古の古史を考ふる人の參考すべき書なり。また太宗紀 六年 甲午の條「是春、會諸︀王射于 斡兒寒 河」の下に、「夏五月、帝在達蘭 達葩之地、大會諸︀王百僚、諭條令云云、」又「秋、帝在八里里 荅闌 荅八思 之地、議自將伐宋云云」とありて、明年 春は和林 城の建築に取掛れり。親征錄にも、甲午の年「五月、於荅蘭 荅八思始建行宮、大會諸︀王百官、宣布憲章」とあり。唐兀の察罕の傳に「太宗卽位、從略河南、北還淸水 荅蘭 荅八 之地、賜馬三百珠衣金帶鞍勒」とあるも、太宗の荅蘭 荅巴思に駐まれる時の事にして、淸水は、八里里を譯したる名ならん。又 定宗紀にも「太宗崩、皇后臨朝、會諸︀王百官於 荅蘭 荅八思 之地、遂議帝」とあり。八里里また淸水は、附きても附かでも同じ處にて、和林の近傍なるべし。雙溪集の詩に達蘭 河あれば、荅蘭 荅巴思(卽 荅闌 峠)は、荅闌 河に沿へる小山にてもあらん。そのありかも確ならざれども、後の考古 探訪家の爲に言ひ置くなり。