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坤河側者︀。」又 方觀承の松漠草 從軍 雜紀の詩の注に「厄爾得尼 招、在喀爾喀 王 策令 部內。厄爾得尼、寶也。招、乃招提省文。地產金銀、故稱寶寺。寺前有元至正年梵書碑、文猶可辨」とあり。

​海︀客兒​​ハイケル​の寫し取れる三石碑

芬蘭の人 海︀客兒は、一八九〇年(明治 二十三年)八月、斡兒歡 河の盆地に至り、古碑 三基を見出し、委しく寫眞に取りて還れり。その一は突︀厥の闕 特勤の碑、その二は突︀厥の默棘連 可汗の碑にして、二つともに兀格依 諾兒の南、額兒迭尼 租の北、喀喇 巴勒嘎孫の東北、鄂兒歡 河の東なる科克申 鄂兒歡 河の右岸、才荅木の地にて、才荅木 湖の西南に當れる所にありて、二碑の相 去ること八町ばかりなり。その三は回紇の毗伽 可汗の碑にして、喀喇 巴勒嘎孫の地にあり。海︀客兒は、遂にそれらの碑銘に說明を加へ、「鄂兒歡の碑銘」と云へる書を出版せり。その頃 歐囉巴の東洋學者︀は、蒙古の古碑 舊跡を趼究する興味を生じ、殊に闕 特勤の碑は、表面の漢︀文、裏面 兩側面の突︀厥文、共に殆 完好なるが故に、その譯解を試みたる人 甚 多し。されども西洋の學者︀は、漢︀文の解釋に拙くして、誤謬も少からざれば、白鳥 博士は、更に突︀厥 闕 特勤 碑銘 考を著︀して、史學 雜誌 第八編 第十一號に載せ、又その考を獨逸︀文に書きて、彼の地の學者︀なかまに頒てり。この闕 特勤の碑は、昔より名高き碑なり。耶律鑄の雙溪 醉隱 集に、凱樂歌の詞曲 九首の中に取和林の詩ありて、その自注に「和林城、苾伽 可汗 之故地也。聖朝太宗皇帝城此、起萬安宮。城西北七十里、有苾伽可汗宮城遺址。城東北七十里、有唐明皇開元壬申御製御書 闕 特勤 碑。案唐史 突︀厥 傳、闕 特勤、骨咄祿 可汗 之子、苾伽 可汗 之弟也。名闕。可汗 之子弟、謂之 特勤。開元十九年、闕 特勤 卒。詔金吾將軍張去逸︀、都︀官郞中呂向、齎璽書使北弔祭、幷爲立碑、上自爲文。別立祠廟、刻石爲像。其像迄今存焉。其碑額及碑文、特勤、皆是殷勤之勤字。唐新舊史、凡書特勤、皆作銜勒之勒字、誤也。諸︀ 突︀厥 部之遺俗、猶呼其 可汗 之子弟特勤 特謹︀ 字也、則與碑文符矣。碑云「特勤、苾伽 可汗 之令弟也。可汗、猶朕之子也。」唐新舊史、竝作毗伽 可汗。勤苾 二字、當碑文正」とあり。その祠廟 石像は、已に存せざれども、闕 特勤の墓にも默棘連 可汗の墓にも、碑の外に立形 坐形の石人 石婦など今 猶 有り。この文の中に苾伽 可汗の字 四所にあり。初の二つは回紇の毗伽 可汗、後の二つは突︀厥の毗伽 可汗なり。混ずべからず。突︀厥にも回乾にも毗伽 可汗ありしことは、唐書の突︀厥 回紇の傳に明なり。回紇の毗伽 可汗は、唐書に見えたる骨咄祿 毗伽 闕 可汗のみならず、海︀客兒の寫せる回乾の毗伽 可汗の碑文に據れば、回紇の可汗は、大抵 世世 毗伽と稱したるが如し。この文の初に「和林 城、苾伽 可汗 之故地也」と云ひながら、次に「城西北七十里、有苾伽 可汗 宮城遺址」と云ひ、和林 城と回乾の故城と同じ所に非ざるが如し。これは、和林の位置を定むるに最 注意すべき事なり。

​喇篤羅甫​​ラドロフ​の新舊 和林の認定

一八九一年(明治 二十四年)、嚕西亞の翰林 學士 喇篤羅甫は、大規模なる蒙古 地方の探檢を企て、匈奴 突︀厥 回紇 蒙古 四朝の古碑 舊跡を捜索 檢討して、蒙古 考古圖を作れり。その書は、殘碑 荒墳 廢墟 遺物などを影寫せるもの七十五幅、それらの所在と地形とを示せる地圖 七幅、凡て八十二幅に、序論 目錄 解說 數十枚と蒙古 探訪 地圖 二幅とを添へて、一八九三年(明治 二十六年)全部 世に出で、闇黑なる漠北の古史に大なる光明を與へたり。その探究に據れば、鄂兒歡 河の盆地に喀喇 科嚕木と云ひし所 二所あり。第一は、回紇の喀喇 科嚕木にして、鄂兒歡 河の左岸 卽 西岸に在り、回紇の苾伽 可汗の宮城の遺址にして、今の喀喇 巴勒嘎孫なり。今 殘れる土壁は、回紇の遺物に非ず、蒙古人の支那より逐出されたる後、回紇の廢墟に築きたる城壁の遺址なり。第二