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城あり。その中に美なる宮殿ありて、そこに太守 住めり」と云へり。出城と云へるは、嚕卜嚕克の離宮なるべし。太守は、元史 地理志の和林 等 處 都︀元帥なり。馬兒科の蒙古に到れるは、元の世祖︀の大都︀に都︀を遷せる後なれば、その頃は合罕の離宮を都︀元帥の官舎に用ひたるならん。嚕卜嚕克の後 四百五十餘年の間、この名高き都︀の遺址ある地方を歐囉巴の旅人にて通りたるもの一人も無かりしが、一七一三年(康熙 五十二年)の頃、耶蘇亦惕 派の傳道師 等、始めて鄂兒坤 河の盆地を訪へり。その後 耶蘇亦惕 派の學僧︀ 誥必勒は、元史 天文志の四海︀ 測驗に「和林、北極出地四十五度、夏至晷景長三尺二寸四分、晝六十四刻、夜三十六刻」とあるに由りて、

和林 位置の問題

和林の位置を推測したりしに、阿別勒 咧繆咱は、その測算を誤れりとし、一八二五年(道光 五年)「咯喇 科嚕木 城の探究」と云へる面白き論文を著︀し、支那の舊籍に依りて、この古城の位置を考定せんと試みたり。これより和林の位置は、歐囉巴の東洋學者の閒にてやかましき問題となれり。

​帕迭𡂰​​パデリン​の發見せる​喀喇 巴勒嘎孫​​カラ バルガスン​

一八七三年(同治 十二年、明治 六年)、庫倫に駐れる嚕西亞の領事 帕迭𡂰は、實地の探檢に由りこの問題を解決せんと思ひ、張德輝の紀行を道しるべとし、まづ兀格依 諾兒に至り、諾兒の東南(とあれども、東の字は衍なり。)三四十 英里、鄂兒坤 河の西 四五 英里の處にて古城の址を見出せり。その地を蒙古人は喀喇 巴勒嘎孫(黑き城)また喀喇 合喇木(黑き郭)と呼べり。城壁は、四角にて、土と甎とより成り、邊の長さは五百步ほどづゝ、高さは今 九尺ほどあり。東の端(東南の隅)には高き塔の址あり。方形の內側には南北の邊に平行せる低き壁の址あり。蒙古人は、何の趾とも確には知らず。只 剌麻 一人進み出でて「こゝは、脫歡 帖木兒 汗の城なりき」と云へり。この喀喇 巴勒嘎孫は、淸 一統圖に達拉爾和 哈拉 巴爾噶遜とあり、耶蘇亦惕 派の傳道師 等は、北緯 四十七度 三十二分 二十四抄と測定したりし所なり。水道 提綱に達爾湖 喀喇 巴哈孫とあるも、その地なり。帕迭𡂰は、そこを去りて西に進み、抹𡂰 脫羅果依 山 兀闌 赤希 山を過ぎて、塔米兒 河を渡れり。抹𡂰 脫羅果依は、馬の頭にして、張德輝の馬頭山なり。兀闌 赤希は、赤き耳にして、卽 忽蘭 赤斤 山、「其形似紅耳」とある山なり。前後の地名 皆 善く紀行の文に合へるに由り、帕迭𡂰は、その古城を和林の遺址と認定し、その旅行 發見の記をその年の「嚕西亞の地學 協會の錄事」に載せ、又その記を弗篤禪科 夫人の英文に譯して、大佐 裕勒の旁注したるもの、一八七四年(明治 七年)の「地學 馬噶津」の一三七頁 以下に見えたり。

​玻自捏也甫​​ボズネエフ​の發見せる​額兒迭尼 租​​エルデニ ゾー​

然るに敎授 玻自捏也甫は、蒙古の編年史 額兒迭紉 額哩客と云ふ書を得て、その中に「喀喇 科嚕木の城は、斡歌台 汗の命にて一たび築かれ、都︀と定められ、又 蒙古人の支那より逐出されたる後、脫歡 帖木兒(惠宗)は、再そこに蒙古の朝廷を定めたりしが、一五八五年(明の神︀宗 萬曆 十三年)額兒迭尼 租の大寺は、その故址に建てられたり」と明に記載せるを見て、一八七七年(明治 十年)、遂に蒙古 探檢の路に上り、額兒迭尼 租の地に至り、寺を繞れる周 一 英里ほどある方形の土壁は、卽 古の喀喇 科嚕木の城壁の遺址ならんと認定せり。こゝに於て和林 問題は、二たびむづかしくなれり。玻自捏也甫は、その後(一八八三年、明治 十六年)額兒迭紉 額哩客を嚕西亞 文に譯出せり。額兒迭尼 租の地は、土謝圖 汗の本旗の界內にて、汗庭の西南に當り、鄂兒坤 河の東 一 英里 餘、北緯 四十七度 十三分 餘の處に在り。耶蘇亦惕 派の傳道師 等は、夙くその地の經緯度を測定し、淸 一統圖には額兒迭尼 招また西 庫倫と記入せり。蒙古 遊牧記 額兒迭尼 招の注に「廟在西十三度、北極出地四十六度、西爾哈 阿濟爾罕 山之西麓。蒙古 謂佛寺招、蓋大 剌麻 寺之在鄂爾