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又「六年春、帝會諸︀王百官于 欲兒陌哥都︀ 之地、設宴六十餘日、賜金帛差」とある欲兒陌哥都︀も、欲兒滅怯土の訛ならん。その年「夏四月、駐蹕于 荅密兒、五月、幸昔剌 兀魯朶」とある昔剌 兀魯朶は卽 失喇 斡兒朶にして、天幕の名は、その天幕の毎年 設けらるゝ所の名とも爲れるなり。郝 和尙 拔都︀の傳に「甲辰、朝定宗於 宿瓮都︀ 之行宮」とある宿瓮都︀も、失喇 斡兒朶の訛ならん。張德輝の紀せる、唐古 河の西なる峻嶺の陽に在りし避夏の帳殿は、卽 欲兒滅怯土の黃帳なるべし。科衣揭の湖は、揭揭 察哈 澤の揭揭にも似たれども、その澤の事は、前に客兒惕 察干とあれば、

​闊闊 諾兒​​ココ ノル​

これは、憲宗紀四年の所に「是歲、會諸︀王于 顆顆 腦兒 之西、乃祭天于月出山」とある顆顆 腦兒の訛なるべし。顆顆 腦兒 卽 闊闊 納兀兒は、靑き湖の義にして、察罕 納兀兒 卽 白湖と同じく、處處に同じ名の湖あり。不兒罕 嶽の南麓にも靑湖あり、甘肅の西境の外にある靑海︀も卽 靑湖なれども、皆これとは異なり。王禕の日月山 祀天頌に「日月山、國語云阿剌溫山、在和林 之北」と云へれば、この靑湖も和林の北に在るべし。又 憲宗紀に「七年秋、駐蹕于軍 腦兒、釃馬乳天」とある軍 腦兒の軍は、闊闊と音 異なれども、同じく祭天の所なるを見れば、顆顆 腦兒と同じきかとも思はる。三年の所にも「秋、幸軍 腦兒」とありて、軍 腦兒の行幸はいつも秋なれば、含篾兒の「秋は科衣揭の湖の畔に」と云へるにも合へり。

翁吉の獵場

又 冬の獵場なる翁奇は、憲宗紀に「三年冬十二月、帝駐蹕 汪吉地」とある地なり。定宗紀に「元年秋七月、卽皇帝位于 汪吉 宿滅禿里 之地」とあるは、汪吉の宿滅禿里の地なるべし。耶律鑄の雙溪醉隱集に「三月到旺結 河感」の詩あり、淸 一統志に朔漠圖を引きて「和林 南有旺吉 河」と云へり。旺結 河 旺吉 河は、卽 今の翁金 河にして、蒙古 游牧記に「翁金 亦 作翁吉」と云ひ、平定 準噶爾 方略には翁吉 地方ともあり。

​普剌諾 喀兒闢尼​​プラノ カルピニ​の傳聞

然らば多遜の翁奇、元史の汪吉は、今の翁金 河の濱、むしろ翁金 河の上流の山地なるべし。歐囉巴 人にて和林の事を始めて記したるは、普剌諾 喀兒闢尼なり。この旅僧︀は、囉馬 敎主 因諸︀肯惕 第四の命を奉じて、一二四六年(定宗 元年)西暦 七月 二十二日、蒙古の昔喇 斡兒都︀に達し、そこに開かれたる定宗 卽位の大會に參列し、紀行を著︀して、王會の盛況を述べたり。喀兒闢尼は、和林の地をば踏まざれども、その地の事をも傳聞に依りて記せり。大會の開かれたる昔喇 斡兒都︀は、欲兒滅怯土の黃帳とすれば、定宗紀に汪吉 宿滅禿里とあるに合はず。喀兒闢尼は、目に賭たる事を述べて誤なかるべければ、定宗紀の地名は誤れるにや。又はこの時 失喇 斡兒朶 卽 黃帳を汪吉の地に設けて卽 汪吉の地をも失喇 斡兒朶と云へるにや。猶 考ふべし。

​嚕卜嚕克​​ルブルク​の觀察

嚕卜嚕克は、佛㘓思 王 路易 第九の命を奉じて、一二五三年(憲宗 三年)の末に和林に至れり。その紀行に云く「合喇 闊欒の都︀は、聖 迭尼思の町ほど好くはあらず。その宮殿に較ぶれば、聖 迭尼思の寺は十倍 好し。そこに大街 二つあり。一つには撒喇先 人 住み、その中に市場あり。一つには支那 人 住み、それらは皆 工匠なり。二街の外に朝貴の大なる邸宅あり。又 諸︀宗の佛堂 十二、抹哈篾惕敎の寺 二つ、町のはてに基督敎の寺 一つあり。町は土の壁にて取圍まれ、門 四つあり。東の門にては黍 雜穀︀を賣れども、供給 豐ならず。西の門にては羊 山羊、南の門にては牛車、北の門にては馬を賣る。城壁の傍に大なる離宮あり。甎の壁にて取捲かれ、內に大殿あり。一年に二たびそこに酒宴を催さる。又 倉廩の如き長き建物 幾棟もありて、合罕の財貨と食物の貯へとを藏めたり。」

​馬兒科 保羅​​マルコ ポーロ​の傳聞

馬兒科 保羅も、傳聞せることを記して「合喇 闊欒は、周圍 三 英里ほどの城なり。そこに石少き故に、堅固なる土の壁にて取捲かる。城の傍に大なる出