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も遠く、察合台は次に遠く、斡歌歹はやゝ近く、拖雷のみ內に居るは、羣兒 分牧の舊俗を大じかけに實行したるなり。故に蒙古 源流には「幼子 圖類︀ 守產」と云ひ、西史に「父の遺產を保つ」と云へるなり。洪鈞の太祖︀ 本紀 譯證に、雞の年 合申を征する時「帝在途閒、窩關台 之子 庫延 古由克 歸。二孫 求賞賚。帝曰「所有之物、已盡歸拖雷。彼係家主。」其後 拖雷 汗 以衣物餽之」と譯して、自注に「拖雷 以幼子父、儼如家主。其後帝崩、遂監國。親征錄謂太上皇帝時爲太子、皆卽斯義。未其誣妄」と云へり。然れども家產を承くると罕の位を襲ぐとは同じからず。蒙古の俗、國に大事あれば、部眾 集り議して定む。これを庫哩勒台と云ふ。汗を選ぶにも師を興すにも皆 然り。家產は季子に歸すれども、罕の位は庫哩勒台の議にて定まる故に、長子 相續の制も無く、父の後は必ず子 繼ぐとも限られず。太祖︀ 遺言して斡歌歹を立てんと欲したれども、敢て儲位を定めず、皇太子と名づけず、庫哩勒台の議決を經て位 始めて定まれり。定宗 憲宗の登極みな然り。世祖︀ 漢︀地に居り漢︀臣の勸めに從ひ自立するに及びて、この制 始めて變はれり。然らば察合台は本より相續人に非ず、拖雷も太子に非ず、斡歌歹も儲君に非ず。筆 執るもの蒙古の俗に暗きが故に、記載 誤り易し。「金主遣使來朝」は、金史 哀宗紀に據れば、

完顏 麻斤出

知開封府事 完顏 麻斤出にして、この年 正月 蒙古に往き弔慰することを命ぜられ、十二月「以奉使不職、免死除名」とあり。搠力蠻は、祕史の搠兒馬罕なり。復 西域を征すること、祕史の下の文に見ゆ。定宗紀に「二年八月、命野里知吉帶、率搠思蠻 部兵西」とある搠思蠻は、撕兒蠻の誤なり。

霍博の地

虎八は、元史に霍博 之地とあり。その地は確ならねども、耶律 希亮の傳に、中統 二年 夏 葉密里 城に抵り、その冬 火孛の地に至り、三年 忽只兒の地に至り、還りて葉密里 城に至るとある火孛の地は、卽 霍博にして、忽只兒の地は、速不台の傳に「略也迷里 霍只 部」とある霍只なれば、霍博 火孛 卽 虎八の地は、忽只兒 卽 霍只の地と共に、額米勒 城の邊に在りて、太宗の分地の內なるべし。太祖︀の大宮は、卽 闊迭兀 阿喇勒の大斡兒朶なり。丁亥の秋 太祖︀の葬禮 畢りて、太宗は諸︀王と共に各その分地に還りしが、戊子の秋 拖雷の招集に由り總會に會せんが爲に至れり。招集は戊子の秋なれども、登極は己丑の秋なるを、祕史は誤りて鼠の年に書けり。

睿宗 ​拖雷​​トルイ​の監國

又 元史 太祖︀紀の末に「戊子年、是歲皇子 拖雷 監國。」太宗紀の初に「太宗英文皇帝、諱 窩闊台、太祖︀第三子、母曰光獻皇后 弘吉剌氏。太祖︀伐金定西域、攻城略地之功居多。太祖︀崩、自霍博 之地來會喪。」會喪は、誤れり。拖雷の招集に由り會したるなり。睿宗の傳に「方太祖︀崩時、太宗畱霍博 之地、國事無屬、拖雷 實身任之」と云へるも非なり。太祖︀ 崩ずる時は、太宗も軍に從ひて左右に居り、葬禮 畢りて後その分地なる霍博の地に還りき。抱雷の監國は、蓋 遺命に依りたるにて、太宗の偶 居らざるが爲に監國したるに非ず、その監國は初より定まれるが故に、太宗は一先その分地に還りたるなり。又 太宗紀に「元年己丑夏、至忽魯班 雪不只 之地、皇弟 拖雷 來見。秋八月己未、諸︀王百官大會于 怯綠連 河 曲雕 阿蘭 之地、以太祖︀遺詔、卽皇帝位 于 庫鐵烏 阿剌里

朝儀の始まり

始立朝儀、皇族尊屬皆拜、頒大 札撒。」原注に「華言大法令也」とあり。この事は、耶律 楚材の傳に委しく、「己丑秋、太宗將位、宗親威會、議猶未決、時 睿宗 爲太宗親弟、故 楚材 言於睿宗曰「此宗社︀大計、宜早定。」睿宗曰「事猶未集、別擇日可乎。」楚材曰「過是無吉日矣。」遂定策立儀制、乃吿親王 察合台曰「王雖兄、位則臣也、禮當拜。王拜、則莫敢不拜。」王深然之。及位、王率皇族及臣僚帳下。旣退、王撫楚材曰「眞社︀稷臣也。」國朝尊屬有拜禮、自此始」と