Page:成吉思汗実録.pdf/352

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に拔都︀大王を朮赤 太子の長子とすれども、多遜の系圖に據れば、拙赤の第二子にして斡兒荅の弟なり。太宗紀 八年の處に斡魯朶 拔都︀とあるは、卽 斡兒荅 巴禿なり。拙赤は太祖︀より先に死に、巴禿その封を襲げり。)​斡惕赤斤 那顏​​オツチギン ノヤン​、​也古​​エグ​、​也孫格​​エスンゲ​を​首​​ハジメ​とせる​左手​​ヒダリテ​の​諸︀王​​ミコダチ​、(太祖︀の弟 四人の封地は、皆 東方に在り。也古 也孫格は、拙赤 合撒兒の子、卷六に見えたり。)​拖雷​​トルイ​を​首​​ハジメ​とせる​內地​​ナイチ​の​諸︀王​​ミコダチ​ ​公主​​ヒメミコダチ​ ​駙馬​​ムコギミダチ​ ​萬戶​​バンコ​ ​千戶​​センコ​の​官人等​​ツカサビトダチ​ ​眾​​モロモロ​となりて、​客魯嗹​​ケルレン​の​闊迭兀 阿喇勒​​コデウ アラル​に​咸​​コトゴト​く​聚​​アツマ​りて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​名​​ナ​ざし​給​​タマ​へるその​勅​​ミコト​に​依​​ヨ​り、​斡歌歹 合罕​​オゴダイ カガン​を​罕​​カン​に​戴​​イタヾ​けり。(闊迭兀 阿喇勒は、卽 卷四の闊朶額 阿喇勤、客魯嗹 河の中洲なり。太宗紀に曲雕 阿蘭 之 地また庫鐵烏 阿剌里、憲宗紀に闊帖兀 阿闌 之地、明宗紀に闊朶傑 阿剌倫とある、皆この地なり。多遜 曰く「成吉思 汗の葬りの後、皇子 諸︀王は各その領地に散り去り、二年の閒 彼等の中に主宰するもの有らざりき。季子なる拖雷は、蒙古の俗に從ひ、父の遺產を保ち、特に蒙古 本部と客喇亦惕の地とを領して、國事を攝し居たりしが、

​多遜​​ドーソン​の述べたる推戴の禮

一二二九年の春、大罕を選ばんが爲に庫哩勒台 卽 總會を召び集めたり。三日 饗宴したる後、集會の事務に取懸れり。察合台は、成吉思 汗の生き殘れる最長子にして、蒙古の相續法に從へば(この語 誤れり。下の阿不勒噶資の言を見よ。)相續すべき人なりしに、多數の發言は拖雷を推さんとせり。然れども斡歌台を名ざしたる成吉思 汗の遺言は力ありき。四十日の猶豫の後、斡歌台の辭退は引かせられて、兄 察合台と叔父 兀出肯とは、斡歌台を高位に導き、拖雷は盞を捧げ、殘りの人は天幕の內外にて帽を脫ぎ、支那の古禮に遵ひ九たび額突︀き、合罕の號を呼びて祝︀聲を擧げたり。その時 斡歌台は、天幕より出でて、日に向ひ三たび嚴かに拜み、諸︀人 皆それに傚ひ、その日は宴會にて畢れり。諸︀王の誓の辭は「我等は、ながみことの子孫に、草の上に投げても牝牛に喫はれざる、膏の中に置きても狗に取られざる一塊の肉 殘れる限りは、他の皇族の王を皇位に置かざらんことを誓ふ」と云へり。」この牛狗に喫はれざる譬は、本書の前卷にあるとは意味全く違へり。かれは不才なるに譬へ、これは威靈あるに譬へたるが如し。

親征錄の書法

親征錄に曰く「太祖︀聖武皇帝昇退之後、太宗皇帝卽大位以前、太上皇帝爲太子、戊子(西紀 一二二八年)避暑︀於 斡兒罕、金主遣使來朝。太宗皇帝與太上皇共議搠力蠻 復征西域。秋、太宗皇帝自虎八於先太祖皇帝之大宮。己丑(西紀 一二二九年)八月二十四日、諸︀王騎馬百官、大會怯綠連 河 曲雕 阿蘭、共冊太宗皇帝極。」太上皇帝とは、睿宗 拖雷を云ふ。拖雷は、憲宗 世祖︀の皇考なるが故にしか云へり。錢大昕 曰く「紀太宗事、而加太上之稱於其弟、所謂名不正而言不順者︀矣。」阿不勒噶資の書に「蒙古の俗、子どもの大きなるものは皆 外に居て、幼子は父の遺產を受く。故に斡赤斤の號は、幼子のみ稱し、その義は竈の主なり」と云へり。

父の遺產を受くる​斡赤斤​​オチギン​

蓋 游牧の民は、一帳の內に羣兒と同じく居ること能はず。故に大兒は次第に出でて外に牧し、畱まる者︀は幼子のみなり。金史 世紀に「生 女直 之俗、生子年長 卽 異居」とあるも、卽 その事にして、北狄の俗 皆 然り。太祖︀の四皇子を分封するに至り、拙赤 最