遠くは離れず。然るを元史に薩里川と書けるは、喪を祕して老營に歸りて後にしか發表したりしならん。七月 五日 壬午 秦州にて病 作り、それより僅に七日を經たる十二日 己丑に蒙古にて崩ずるは、有られざることなり。元史の本づきたる舊史 卽 太祖︀ 實錄などは、當時 發表したる布吿に從ひ、蒙古に崩じたりとしながら、その日附は、發表したる日を用ひず、漢︀地に崩じたる眞の忌日を錄したるならん。太祖︀ 二十二年 丁亥の七月 十二日 己丑は、主里安 曆の一二二七年 八月 廿五日なれば、集史の譯文に八月 十五日とあるに合はず。佐久間 信恭 曰く「十五日は、必 廿五日の誤寫ならん。」
太祖紀に曰く「臨㆑崩謂㆓左右㆒曰「金之精︀兵在㆓潼關㆒、南據㆓連山㆒、北限㆓大河㆒、難︀㆓以遽破㆒。若假㆓道于宋㆒、宋金世讎、必能許㆑我。則下㆓兵唐鄧㆒、直擣㆓大梁㆒。金急、必徴㆓兵潼關㆒。然以㆓數萬之眾㆒、千里赴援、人馬疲弊、雖㆑至弗㆑能㆑戰。破㆑之必矣。」言訖而崩。壽六十六。葬㆓起輦谷㆒。」西史に載せたる太祖︀の遺言は、諸︀子を訓ふる辭と喪を祕することとのみにして、南伐の謀に及ばす。黑韃 事略 徐霆の疏證に王檝の言を引きて「某向隨㆓成吉思㆒、攻㆓西夏㆒。西夏國俗、自㆓其主㆒以下、皆敬㆓事國師㆒。凡有㆓女子㆒、必先以薦㆓國師㆒、而後適㆑人。成吉思 旣滅㆓其國㆒、先臠㆓國師㆒。國師者、比丘僧︀也。其後隨㆓成吉思㆒、攻㆓金國鳳翔府㆒。城破、而 成吉思 死。嗣主 兀窟䚟 含㆑哀云「金國牢守㆓潼關黃河㆒、卒未㆑可㆑破。我思㆘量鳳翔通㆓西川㆒、西川投㆑南、必有㆗路可㆖㆑通㆓黃河㆒。後來遂自㆓西川㆒、迤邐入㆓金房㆒、出㆓汝光㆒、徑造㆓黃河之裏㆒、竟滅㆓金國㆒」とあり。兀窟䚟は卽 太宗 斡歌歹なり。この言に據れば、南南の路より汴京に逼るの謀は、太祖︀より出でずして、太宗より出でたるに似たり。起輦谷の所在は確ならず。
黑韃 事略に「其慕無㆑塚︀、以㆑馬踐蹂、使㆔平如㆓平地㆒。若㆓忒沒眞 之墓㆒、則挿」矢以爲㆑垣、(原注。闊踰㆓三十里㆒、)邏騎以爲㆑衞。」徐霆の疏證に「霆見㆘武沒眞 之墓、在㆓瀘溝 河之側㆒、山水環繞㆖。相傳云㆘忒沒眞 生㆓於此㆒、故死葬㆗於此㆖。未㆑知㆓果否㆒。」瀘溝河の溝の字、洪釣 引きて渚︀の字とし、羅豐祿の藏本には局の字とせり。いづれにしても客嚕倫 河なり。帖木眞そこに生れたりと云へるは、傳聞の誤なり。馬兒科 保羅の紀行に「あらゆる大汗、太祖︀ 成吉思のあらゆる子孫は、阿勒泰と云ふ山に運びて葬らる。汗はいづこに死ぬとも、死にたる所は百日路 隔たるとも、必ず先祖︀の居るその山の墓所に運ばる」とあり。阿勒泰と云へるは、誤れり。大佐 裕勒はこの阿勒泰を今の昔別哩亞 界の大山脈に非ず、兀兒噶に近き汗 諤剌 卽 汗山ならんと云ひたれども、汗山としても客嚕倫 河より隔たれり。喇失惕 曰く「成吉思 汗は、不兒勘 喀勒敦(神︀の山)卽 也客 庫嚕克(大靈地また大禁地)と云ふ所に葬られき。」また曰く「嘗て獵に出でて樹の下にたゝずみ、その樹を愛して「われ死なば、こゝに葬れ」と云へることありしにより、遂にそこに葬れり。その樹は著︀しかりしが、後にまはりの樹木 速に生ひ立ち、茂き林は地を蔽ひて、墓のありか分らずになり、葬りを送りたる人にても識ること能はざりき。禿里 汗 曼古 汗 庫必來 汗 阿里不喀は皆こゝに葬られ、他の子孫は別の所に葬らる。墓守は、兀哴乞惕 千人なり」と云へり。不兒勘 喀勒敦は、今の肯特 山にして、卽 客嚕倫 河の源なり。元史 本紀に據れば、憲宗紀に葬地を脫したる外、寧宗までの諸︀帝みな「葬㆓起輦谷㆒」とあり。又 明の葉子奇の草木子に曰く「歷代送㆑終之禮、元朝宮裏、用㆓梡木二片㆒、鑿㆓空其中㆒、類︀㆓人形大小㆒、合爲㆑棺、置㆓遺體其中㆒、加㆓髹漆㆒畢、則以㆓黃金㆒爲㆑圈、三圈定、送至㆓其直北園寢之地㆒、深埋之。國制、不㆑起㆓墳壠㆒。葬畢、以㆓萬馬㆒蹂㆑之使㆑平、殺︀㆓駱駝子其上㆒、以㆓千騎㆒守㆑之來歲春草旣生、則移㆑帳散去、彌望平行、人莫㆑知也。欲㆑祭時、則以㆓所殺︀駱駝之母㆒為㆑導、視︀㆓其躑躅悲鳴之處㆒、則知㆓葬所㆒矣。」駝駝の說は信じ難︀けれども、葬埋の制を