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​門外​​カドノソトニテ​ ​行​​オコナハ​​禮​​レイヲ​。

九を尙ぶ蒙古の俗

九つ九つは、九九 八十一にあらず、九つづゝと云ふことなり。蒙古人は、九の數を尙ぶゆゑに、贈︀物にも九を用ふとは、阿不勒噶資の書にも見えたるが、元史にも、遼王 耶律 畱哥の寡婦 姚里 氏の太祖︀に謁︀したる時、人 馬 金 幣みな九つづゝ賜はれることを載せ、また高麗史 金就礪の傳にも、蒙古の元帥 哈眞より高麗の趙沖 金就礪 二將に少女 九人づゝ 駿馬 九匹づゝを遺れることを載せたり。今 譯者︀のこゝに姚里 氏の美談を引くことを許してよ。耶律 畱哥の傳に曰く「庚辰(太祖︀ 十五年)畱哥 卒、妻 姚里 氏 入奏。會帝征西域、皇太弟(斡惕赤斤)承制、以姚里 氏虎符、權領其眾者︀七年。丙戌(太祖︀ 二十一年)姚里 氏攜次子 善哥 鐵哥 永安 及從子 塔塔兒 孫收國奴、見帝于河西 阿里湫 城(平涼府)。帝曰「健鷹飛不到之地、爾婦人乃能來耶。」賜之酒、慰勞甚至。姚里 氏 奏曰「畱哥 旣沒、官民乏主。其長子 薛闍、扈從有年、願以次子 善哥之、使歸襲爵。」帝曰「薛闍 舎 爲蒙古 人矣。其從朕之征西域也、回回 圍太子(拙赤)於 合迷 城。薛闍 引千軍出之、身中槊。又於蒲華 撏思干 城、與回回格戰、傷於流矢。以是積功、爲拔都︀魯、不遣。當善哥 襲其父爵。」姚里 氏拜且泣曰「薛闍 者︀、畱哥 前妻所出嫡子也、宜立。善哥 者︀、婢子所出。若立之、是私己而蔑天倫。婢子 竊 以爲不可。」帝歎其賢、給驛騎四十。從河西、賜河西俘人九口、馬九匹、白金九錠、幣器︀皆以九計。許薛闍爵、而畱善哥 塔塔兒 收國奴 於朝、惟遣其季子 永安、從姚里 氏東歸。」阿里湫は、祕史の額哩折兀、馬兒科 保羅の額兒傀兀勒にて、卽 夏の平涼府なり。「回回 圍太子於 合迷 城」は、西征の役の始まりに、蒙古の兵 篾兒乞惕の餘眾を逐へるもの、合米赤 河の邊にて闊喇自姆の兵と衝突︀せる戰(多遜の史)を指せるに似たり。又 蒙古人の九を尙び白を尙ぶ風俗は、後世までも變はらずと見えて、蒙古 游牧記に「崇德 三年、喀爾喀 三汗、竝遣使來朝、各貢白馬八白駝一、謂之九白之貢、歲以爲常」とあり。)かく​見​​マミ​ゆる​時​​トキ​、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​心​​ムネ​ ​惡​​ワロ​かりき。​第三​​ダイサン​の​日​​ヒ​に​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あり、

​不兒罕​​ブルカン​の殺︀され

​亦魯忽 不兒罕​​イルク ブルカン​に​失都︀兒忽​​シドルク​の​名​​ナ​を​賜​​タマ​ひて、​亦魯忽 不兒罕 失都︀兒忽​​イルク ブルカン シドルク​に​來​​コ​られて、そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は「​亦魯忽​​イルク​を​逝​​イ​なせん(死なせん)」とて、​脫侖 扯兒必​​トルン チエルビ​に「​手​​テ​に​掛​​カ​けて​逝​​イ​なせよ」と​勅​​ミコト​ありき。そこに​脫侖 扯兒必​​トルン チエルビ​は「​亦魯忽​​イルク​を​手​​テ​に​掛​​カ​けて​事​​コト​ ​畢​​ヲ​へたり」と​奉​​タテマツ​しければ、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あるに

​脫侖​​トルン​の恩賞

「​唐兀惕​​タングト​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​言​​コトバ​を​折證​​セツシヨウ​せんと​來​​キ​つるに、​路​​ミチ​にて​阿兒不合​​アルブカ​の​野馬​​ノウマ​を​圍獵​​マキガリ​したれば、「​痛​​イタ​めたる​我​​ワ​が​膚​​ハダヘ​を​痊​​イ​やせ」とて​我​​ワ​が​命​​イノチ​ ​體​​カラダ​を​愛​​ヲシ​みて、​言​​コトバ​を​陳​​ノ​べたるは、​脫侖​​トルン​なるぞ。​對手​​アヒテ​の​人​​ヒト​