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史 太祖︀ 二年 丁卯の條に斡羅孩 城、元史 四年 己巳の條に兀剌海︀ 城とあり。地理志 甘肅 等處 行中書省 七路 二州の末に兀剌海︀ 路ありて、その建置 沿革は闕けたれども、原注に「太祖︀ 四年、由黑水城北、兀剌海︀ 西關口河西、獲西夏將高令公、克兀剌海︀城」とあれば、甘肅 等州の東にあることだけは推し量らる。喇失惕の額哩喀 又 額兒剌喀(額兒篤曼の讀みたる阿嚕克奇)は、卽 兀喇孩にして、國都︀なる亦兒該また亦兒喀牙と異なり。然るに裕勒は、迭 邁剌(卽 元史)の兀剌海︀を馬兒科の額固哩噶牙(寧夏)に當てたるは、誤なり。又 克剌魄羅惕は、庫卜來 時代の亞細亞の地圖に、兀剌孩を寧夏の北なる黃河の大曲の邊に書き入れたれども、何に據りたるにや。蒙古 游牧記 阿拉善 額魯特 部の條に、康熙 年中 兵部 督捕 理事官 拉都︀琥の奏を引きて「龍頭山、蒙古 謂之 阿拉克 鄂拉、乃甘州城北東大山脈、緜延邊境。山口卽邊關、建夏口城、距滍川堡五里。山盡爲甯遠堡。距龍頭山里許、有昌甯湖之」又 淸 一統志に「龍首山、在旗西南、與甘州府山丹縣界。蒙古名阿喇克 鄂拉。緜亙廣遠、東大山之脈絡也。距甘州城三十里」とあり。施世杰〈[#「施世杰」は底本では「施世𤇍」]〉は、これに據りて「兀剌孩、卽 阿喇克 鄂拉 之對音。元太祖︀由今張掖縣程、東攻靈州、定須此山也。是 兀剌孩 城、必在今 阿喇克 鄂拉 之 中矣」と云ひ、高寶銓は「今山口卽邊關、建夏口城。疑 兀剌孩 城卽在其處」と云へり。阿喇克 鄂拉は、卽 阿喇克の山なれば、阿喇克の音は、兀喇孩また阿嚕克奇にやゝ似たり。朶兒篾該は、明譯に靈州とあり。

​朶兒篾該​​ドルメガイ​ 卽ち靈州

靈州の城は、元史 地理志 寧夏府路の下に「靈州、唐爲靈州、又爲靈武郡。宋初陷於夏國、改爲翔慶軍」とあり。明の陝西 寧夏衞 靈州所は、そのやゝ東北に移り、今は甘肅 甯夏府 靈州となりたれば、夏の靈州の遺趾は、今の靈州の西南に在り。蒙古 源流に圖爾墨︀格依 城とあるは、卽 朶兒篾該なり。喇失惕の迭兒薛孩は、篾を薛と誤れり。こゝの不兒罕は、前に見えたる獻宗 德旺に非ず、德旺の弟 淸平郡王の子 末帝 睍〈[#「睍」は底本では「日または耳の変形+見」]〉なり。續 通鑑 綱目 丙戌 寶慶 二年(太祖︀ 二十一年)の條に「蒙古 主入夏、城邑多降。七月、夏主德旺憂悸而卒、國人立睍、」

元史の征夏の師

元史 太祖︀紀には二十二年 丁亥 六月「夏主 李睍 降」とあり。太祖︀紀 二十一年 夏「避暑︀渾垂山」の續きに曰く「取甘肅等州、秋取西涼府 搠羅 河羅 等縣、遂踰沙陀、至黃河九渡、取應里 等縣。冬十一月庚申、帝攻靈州、夏遣嵬名 令公來援。丙寅、帝渡河擊夏師之。丁丑、五星聚見於西南。駐蹕鹽州川。二十二年丁亥春、帝畱兵攻夏王城、自率師渡河、攻積石州、二月破臨洮府、三月破洮河西寧二州。夏四月帝次龍德、拔德順等州。德順節︀度使 愛申 進士馬肩龍死焉。」これらの征戰の路順を考ふるに、まづ

甘州

甘州は、馬兒科 保羅の甘闢出、喇失惕の喀米出、元の甘肅 行省 甘州路、明の陝西 甘州衞、今の甘肅 甘州府なり。

肅州

肅州は、馬兒科 保羅の速克出、喇失惕の昔出、元の甘肅 肅州路、明の陝西 肅州衞、今の甘肅 肅州なり。この二州は、甘州 東にありて、肅州 西にあれば、蒙古の軍は、まづ肅州を取りて、次に甘州を取れり。

沙州

肅州の西に沙州あり、夏國の西端なり。この役に沙州を敗り肅州を屠りたることは、昔里鈐部の傳に見え、次に甘州の守將は察罕の父にして、その副將に殺︀されたること、察罕の傳に見ゆ。西涼府は、前に注せり。西涼の圍みに粘合 重山の指揮したること、重山の傳に見ゆ。掬羅 河羅は、夏人の置きたる西涼府の屬縣なるべし。元には無し、沙陀は、沙漠なり。涼州より直に甯夏に赴くには、必ず沙漠を渉る。

黃河 九渡

黃河 九渡は、河源 附錄にある上流の九渡に非ず、應里縣の南にて河流いくつにも分れたる故に、九渡と云ふ。

應里縣

應里縣は、元史 地理志 寧夏府路の下に「應理州、與蘭州境、東阻大河、西據沙山」とあり。河源 附錄に「至蘭州、過北卜渡、至鳴沙河、過應吉里 州、正東行