に向ムカへ」と云イひて遣ヤりき。(
阿剌篩は、明譯に賀蘭山とあり。元和 郡縣志「賀蘭山、在㆓靈州保靜縣西九十三里㆒。山有㆓樹木㆒、靑白如㆓駮馬㆒。北人呼㆑駮爲㆓賀蘭㆒。從㆑首至㆑尾、有㆑像㆓月形㆒。南北約長五百餘里、眞邊城之鉅防。」河套志「上有㆓廢寺百餘㆒、多㆓元昊故宮遺址㆒。」淸 一統志「賀蘭 山在㆓河套以西㆒、與㆓甯夏府邊㆒接㆑界、土人名曰㆓阿拉善 山㆒。」阿拉善 額魯特 部 和碩 親王の領地は、この山の西にありて、その駐牧の處を定遠營と云ふ(蒙古 游牧記)。嚕西亞の普兒在 哇勒思奇は、一八七一年に定遠營の地に至れり。
額哩合牙は、明 語譯に寧夏とあり、寧夏の城は、元史 地理志に「寧夏府路、唐屬㆓靈州㆒。宋初廢爲㆑鎭、領㆓蕃部㆒。自㆓唐末㆒、有㆓拓拔 思恭者︀㆒、鎭㆓夏州㆒、有㆓銀夏綏宥靜五州之地㆒。宋天禧閒、傳至㆓其孫德明㆒、城㆓懷遠鎭㆒、爲㆓興州㆒以居、後升㆓興慶府㆒、又改㆓中興府㆒。元至元二十五年、置㆓寧夏路總管府㆒、領㆓州三㆒」とある處にて、夏の時は國都︀となり、至元 以後は寧夏府路と稱し、甘肅 行中書省に屬し、明の世は寧夏衞と稱し、陝西省に屬し、今は又 甯夏府となり、甘肅省の東界の要會なり。元史 太祖︀紀 四年 己巳には中興府、二十二年 丁亥には夏王城と云へり。額哩合牙は、蓋 中興府の舊き土名にして、土人 蒙古人は、後後までもその名を用ひたるならん。明譯に寧夏としたるは、至元 以後の名に改めたるなり。馬兒科 保羅の紀行に「額兒傀兀勒より東に八日 馬行して、額固哩噶牙の州に至る。屬する市邑 多く、首府を喀剌昌と云ふ。その民は、駱駝の毛より世界にて最も美しき緞子を夥しく織出す」と云ひ、多遜は、喇失惕に據りて「唐古惕の王 失迭兒古の都︀ 亦兒該を蒙古人は亦兒喀牙と云ふ」と云へり。保羅の額固哩噶牙も、喇失惕の亦兒喀牙も、蒙古 源流に屢 見えたる亦兒該も、皆 卽ち本書の額哩合牙なり。喀剌昌は、卽 阿拉善、卽 賀剌山にて、賀蘭山の麓にある故に、その城をもしか云ひしならん。裕勒は、保羅の額固哩噶牙 喇失惕の亦兒喀牙を迭邁剌(卽 元史)の兀剌海︀に當てて、喇失惕の亦兒喀牙を都︀と云へるを誤れりとし、隨て克剌魄囉惕のそれを甯夏に當てたるを非なりとし、「額固哩噶牙は、今の阿拉善 親王の地にして、その都︀ 喀剌昌は、今の定遠營ならん」と云へるは、甚じき誤なり。又 曷思麥里の傳に「會帝親征㆓河西㆒、曷思麥里 云云、命常居㆓左右㆒、至㆓也吉里海︀牙㆒、又討平㆓失的兒威㆒」とある也吉里海︀牙は、卽 額哩合牙にて保羅の額固哩噶牙に最も音 近し。失的兒威は、卽 喇失惕の失迭兒古にて、威は忽の字などの誤なり。
額哩折兀は、明譯に西涼とあり。西涼の城は、元史 地理志に「永昌路、唐涼州、宋初爲㆓西涼府㆒、景德中陷㆓入西夏㆒。元初仍爲㆓西涼府㆒。至元十五年、以㆓永昌王(諸︀王 只必帖木兒)宮殿所㆒㆑在、立㆓永昌路㆒、降㆓西涼府㆒爲㆑州隸焉」とある處にて、至元以後は永昌路 西涼州と稱して、甘肅 行中書省に屬し、明は陝西 涼州衞となり、今は甘肅 涼州府となれり。今の平涼府とは異なり。その永昌路治のありし所は、明に陝西 永昌衞となり、今は甘肅 涼州府 永昌縣となり、涼州 府治 武威縣の西北 百六十 淸里に在り。馬兒科 保羅の紀行に曰く「甘闢出(卽 甘州)より出でて東に五日 旅すれば、額兒傀兀勒と云ふ王國に至る。それは、唐古惕の大州をなせるあまたの王國の一つなり。」額兒佛兀勒は、卽 額哩折瓦なり。甘州より五日路にして、甯夏までは八日 馬行せりと云へば、今の涼州府の位置にほゞ合へり。保塞兒は、永昌にあてて、永昌王の地なるが故に「王國」と云へるならんと云ひたれども、馬兒科の「王國」は、額兒傀兀勒に限りて云ひたるにもあらざれば、「王國」の字は、拘るにも及ぶまじ。額兒傀兀勒は、太祖︀ 南征の時の額哩折兀にして、永昌王の住まざりし前よりある處なれば、永昌路治にはあらずして、宋 夏 元初の西涼府なるべし。)こ