出馬シユツバせんぞ、我等ワレラ」と云イへば、眾アマタの諸︀王ミコダチ 官人等ツカサビトダチ、この言コトバを是ヨシとして、成吉思 合罕チンギス カガンに奏マウしければ、成吉思 合罕チンギス カガン 宣ノリタマはく
「唐兀惕タングトの民タミは、我等ワレラを心コヽロ 怯オぢて回カヘれりと云イはん。我等ワレラは、使ツカヒをまづ遣ヤりて、使ツカヒをすぐ此コの搠斡兒合惕シユオルカトにて試コヽロみて、彼カレの言コトバを察ミて退シリゾかば可ヨからん」と宣ノリタマひて、そこに使ツカヒを命ミコト 持モちて遣ヤるに「先年サキツトシ 不兒罕ブルカン 汝ナンヂ 言イく「我等ワレラ 唐兀惕タングトの民タミは、爾ナが右ミギの手テとならん」と云イひき。汝ナンヂにかく云イはれて、「撒兒塔兀勒サルタウルの民タミに協議ケフギに入イられずして、出馬シユツバせん」とて、索モトめて遣ヤれば、汝ナンヂ 不兒罕ブルカンは、言コトバ(約束)に遵シタガはず、軍イクサをも與アタへず、言コトバにて侵オカして來キてありき。「別ホカに向ムカへる時トキ、後ノチに折證セツシヨウせん」とて、撒兒塔兀勒サルタウルの民タミの處トコロに出馬シユツバして、長生トコヨの上帝アマツカミに祐︀護イウゴせられて、撒兒塔兀勒サルタウルの民タミを正路シヤウロに入イらしめて、今イマ 不兒罕ブルカンの處トコロに言コトバを折證セツシヨウせんとて來キぬ」と云イひて遣ヤりたれば、不兒罕ブルカン 言イハく「侵オカせる言コトバは、我ワレ 言イはざりき」と云イひき。(太祖︀ 十四年 己卯 西征の軍を興さんが爲に使を遣りて兵を徵したる時の唐兀惕の不兒罕は、夏の神︀宗 李遵頊なりき。十八年 癸未 遵頊はその子 獻宗 德旺に位を遜りたれば、この不兒罕は、卽ち德旺なり。)
阿沙敢不アシヤガンブ 言イハく「侵オカせる言コトバは我ワレ 言イひき。今イマも有アらば、汝等ナンヂラ 忙豁勒モンゴルは、戰タヽカヒに慣ナれて戰タヽカはんと云イはば、我ワレこそは阿剌篩アラシヤイの山ヤマに營盤イヘヰあり天幕テンマク帖兒篾の家イヘあり駱駝ラクダ帖篾延の駄ニツくるあるなれ。阿剌篩アラシヤイ 指サして、我ワが處トコロに來コよ。そこに戰タヽカはん。金コガネ 銀シロカネ 織物オリモノ 財タカラ 用モチふるあらば、額哩合牙エリガヤ 額哩折兀エリヂエウ