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史に曰く「二十一年春正月、帝以西夏納仇人 赤臈喝︀ 翔昆及不質子、自將伐之。」赤は、亦の誤寫にして、續 通鑑 綱目には亦とあり。

再征の理由

亦臈喝︀ 翔昆は、卽 親征錄の亦剌合 鮮昆、祕史の你勒合 桑昆なり。癸亥の年 王罕の滅びたる時「亦剌合 走西夏、日剽掠以自資。旣而亦爲西夏所攻、走至龜茲 國、龜茲 國主 以兵 討殺︀之」と元史に有り。仇人を納るとは、その事を指せるなり。然るに西夏 書事 寶慶 元年(太祖︀ 二十年)の處に「九月、蒙古 仇人 赤臘喝︀ 翔昆 來奔。納之。赤臘喝︀ 翔昆、乃蠻 部 屈律 罕 子云云。德旺以其同仇納之、給以糧糗」とれいれいと書きたるは、杜撰も甚し。また桑昆の西夏に走りたるは、二十餘年前の事なれば、その事を以て西夏を責めたるは、乙丑の年 始めて西夏を征したる時の事なるべし。今度の役に至りては、必しもこれを以て口實とはせざるべし。今度の再征の理由は、祕史の前文に詳なるのみならず、集史には唐古惕 又 叛けりとあり。西夏 書事に嘉定 十七年(太祖︀ 十九年)二月「德旺聞蒙古 主征西域還、遣使結漠北諸︀部外援、陰圖拒守計。諸︀部出兵應之」とあり。この事もし實ならば、集史の「叛けり」と云へるも、形なきことにはあるまじ。

續 綱目 集史の記事

また續 通鑑 綱目に「蒙古 鐵木眞 伐夏」を乙酉の冬 十月としたるは、耶律 楚材の序文に合ひて、是なるが如くなれども、元史 本紀 丙戌の夏 避暑︀の後に記せる戰事、「取甘肅州西涼府、十一月取靈州、進次鹽州川」をみな乙酉の年の內に記したるは、また非なり。集史に曰く「唐古惕 又 叛けりと聞きて、雞の年 秋、軍を整へて合申を攻め、察合台には本部の兵にて老營の後路を守らしめ、拙赤は已に死し、斡歌台は軍に從へり。拖雷 罕は、その妻 失兒忽克屯 別乞 痘を出せるに由り 數日 後れたり。」妻の名は、祕史に莎兒合黑塔泥 別乞、元史に唆魯禾帖尼とあり、皆 音 近し。)​路​​ミチ​にて​冬​​フユ​に​阿兒不合​​アルブカ​の​多​​オホ​き​野馬​​ノウマ​を​圍獵​​マキガリ​したれば、

太祖︀の負傷

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​勺莎禿孛囉​​ヂヨシヨトボロ​(馬の種類︀の名にして、明譯 紅沙馬)に​騎​​ノ​りて​在​​イマ​しき。​野馬​​ノウマ​ども​撞​​ツ​きて​來​​キ​つれば、​勺莎禿孛囉​​ヂヨシヨトボロ​ ​驚​​オドロ​きて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​を​馬​​ウマ​より​落​​オト​したれば、​膚​​ハダヘ​を​甚​​イタ​く​痛​​イタ​めて、​搠斡兒合惕​​シユオルカト​に​下營​​カエイ​せり。その​夜​​ヨル​ ​宿​​ヤド​りたれば、​朝​​アシタ​に​也遂 合敦​​エスイ カトン​ ​言​​イハ​く「​諸︀王​​ミコダチ​ ​眾官人​​ツカサビトダチ​に​吿​​ツ​げ​合​​ア​はん。​合罕​​カガン​は​夜​​ヨル​ ​膚​​ハダヘ​ ​熱​​ホト​り​寝​​イ​ね​給​​タマ​へり」と​云​​イ​へり。そこに​諸︀王​​ミコダチ​ ​眾官人​​ツカサビトダチ​ ​聚​​アツマ​れば、​晃豁塔惕​​コンゴタト​の​脫侖 扯兒必​​トルン チエルビ​ ​建議​​ケンギ​して​言​​イハ​く「​唐兀惕​​タングト​の​民​​タミ​は、​築​​キヅ​​那都︀黑先​きたる​城​​シロ​ある、​動​​ウゴ​​嫩只​かざる​營盤​​イヘヰ​​嫩禿黑​あるなり。​築​​キヅ​きたる​城​​シロ​を​擡​​モタ​げては​去​​サ​らじ、​彼等​​カレラ​。​動​​ウゴ​かざる​營盤​​イヘヰ​を​撇​​ス​てては​去​​サ​らじ、​彼等​​カレラ​。​我等​​ワレラ​ ​退​​シリゾ​きて​合罕​​カガン​の​膚​​ハダヘ​ ​冷​​サ​めなば、​又​​マタ​ ​却​​カヘツ​て