成吉思 汗 實錄チンギス カン ジツロク 卷マキの十二ジフニ。
§265(12:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
その冬フユ 冬籠フユゴモリして唐兀惕タングトの民タミの處トコロに出馬シユツバせんとて、新アタラしき數カズ(兵數)を數カゾへて、狗イヌの年トシ(我が嘉祿 二年 丙戌、宋の寶慶 二年、金の正大 三年、元の太祖︀ 二十一年、西紀 一二二六年、太祖︀ 六十五歲の時)秋アキ、成吉思 合罕チンギス カガンは、唐兀惕タングトの民タミの處トコロに出馬シユツバせり。合敦カトンより也遂 合敦エスイ カトンを伴ツれて往ユけり。(
この出陣を、親征祿 集史は乙酉の秋とし、元史本紀は丙戌の正月とし、皆 本書と異なり。湛然后士集なる辨邪論の序に「乙酉日南至、叙㆓於瀚海︀軍之高昌城㆒」とあり。瀚海︀軍の高昌城は、西游錄に「回鶻城、名㆓別石把㆒、有㆓唐碑㆒、所謂瀚海︀軍。城之南五百里有㆓和州㆒、卽唐之高昌」とありて、畏兀兒に屬する和州の城を唐の名にて呼べるなり。その地は、今の哈喇和卓にして、西域 水道記に吐魯番の東 七十里にありと云ひ、一八七九年にその地に至りし嚕西亞の博士 咧格勒は、名を喀喇古札と書き、禿兒番の東南 四十 嚕里に在りと云へり。この征夏の役に楚材の從へることは楚材の傳に見え、この役は夏國の西より進みたること本紀に見え、金國志にも「蒙古 由㆓回鶻㆒往攻㆓西夏㆒、西夏 遂亡」とあれば、太祖︀ 二十年 乙酉の冬至の日には、楚材は大軍に從ひて哈喇和卓に在りしなり。然らばその出陣を本書 元史の戌の年としたるは非にして、親征錄 集史の酉の年としたるは是なり。元