Page:成吉思汗実録.pdf/331

このページはまだ校正されていません

太子來」と云へる時にて、癸未の二月なり。喀闌 塔失は、卽 塔什肯篤にして、謂はゆる「水草 豐茂」の地は、その近郊なり。太祖︀は、諫を容れて、兩月 獵を罷めたれども、蒙古人の習は遽に已め難︀く、癸未の夏は遊獵を以て送りたるなり。さて癸未の駐冬は、いづこなりしか知るべからず。湛然居士集に從容菴錄の序あり、「甲申中元、序於西域阿里馬 城」と云へり。

​阿勒馬里克​​アルマリク​ 甲申の駐夏

阿里馬は、卽 阿勒馬里克なれば、耶律 楚材は太祖︀に從ひ、十九年 甲申 七月 十五日、阿勒馬里克に居たるなり。また丁亥 九月 望日に作れる過夏國 新安縣の詩ありて「昔年今日度松關」の句あり、その原注に「西域陰山有松關」と云へり。陰山は、卽 天山なり。松關は、喇喇姆 諾兒の西南に在り、西游記に「左右峰巒峭拔、松樺陰森、高踰百尺、自巓及麓、何啻萬株」と云へる所なり。西域 水道記に「賽喇木 淖爾、當惠遠城正北二百里、在松樹頭嶺下」、また「果子溝、谷長七十里、北有峻嶺之、嶺上多松、名曰松樹頭嶺」とありて、松樹頭嶺は、山にして關に非ざれども、その險隘なるに由り、詩には松關と云へるなり。「昔年今日」とは、丁亥の三年前なる甲申の九月 十五日を云へるなり。阿勒馬里克より松樹頭嶺までは、二日路に過ぎざれば、楚材 等の阿勒馬里克を發したるは、早くとも九月 望日の三四日 前にして、九月 上旬までは阿勒馬里克に畱まれるならん。然らば阿勒馬里克は、卽 甲申の駐夏の地なるべし。

​額米勒​​エミル​ 河 甲申の駐冬

又 多遜の史に「皇孫 二人、十一歲なる忽必來、九歲なる忽剌古は、額米勒 河まで迎へに出で、忽必來は兔を殺︀し、忽剌古は鹿を殺︀して上れり」とあり。額米勒 河は、今の塔兒巴哈台 城の南にあり、西に流れて阿剌克 庫勒の湖に入る。その溪は、牧場として名高し。元史 憲宗紀の葉密立 地、耶律 希亮の傳なる葉密里 城は、額米勒 河の邊なり。西域 水道記は、額敏︀ 河と書き、「額敏︀ 者︀、回語淸淨平安之謂。音轉爲額密爾」と云へり。忽必來は、卽 世祖︀にて、太祖︀ 十年 乙亥に生れたれば、十一歲なる時は、二十年 乙酉なり。松樹頭嶺より額米勒の地までは、十數日の路程なるに、甲申の九月 十五日 松樹頭嶺を踰えて、翌年 猶 額米勒に畱れるは、蓋 甲申の冬 額米勒に駐冬して、翌年の春 未だ出發せざるに二皇孫の至れるならん。

​者︀別​​ヂエベ​ ​速不台​​スブタイ​の大軍に追ひ附き

又 者︀別 速不台の軍は、乞魄察克 康克里の地より還り、いづこにて大軍に會せしか、東西の諸︀史に明文なし。者︀別は、多遜の史に途にて死にたりと云ひ、曷思麥里の傳にも「軍還、哲伯 卒」とあれば、大軍に會して まもなく歿したるなり。速不台の傳に、西征より還りて後「略也迷里 霍只 部、獲馬萬匹以獻」とあれば、二將は、甲申の額米勒 駐冬の前に大軍に會したるにて、庚辰の夏 速勒壇 追討の命を受けたる時「抹古里思壇に會せん」と宣へる勅旨に適合せり。但 三年の期限は後れたり。かくて太祖︀は、壬午の冬 失兒 河を渡りてより甲辰の冬 額米勒 河に駐まるまで二年の間 徐行したるは、何故ぞ。洪鈞 曰く「太祖︀東歸之時、正 哲別 速不台 入欽察俄羅斯之時。豈因二將暴師於遠、故遲行以俟軍信耶」と云へるは、さもあるべし。

乙酉の歸國

​七年​​ナヽトセ​に​當​​アタ​る​雞​​ニハトリ​の​年​​トシ​の​秋​​アキ​、​禿剌 河​​トラ ガハ​の​合喇屯​​カラトン​に​斡兒朶​​オルド​の​處​​トコロ​に​下馬​​ゲバ​せり。(雞の年は、後堀河 天皇 嘉祿 元年 乙酉、宋の理宗 寶慶 元年、金の哀宗 正大 二年 元の太祖︀ 二十年、西紀 一二二五年、太祖︀ 六十四歲の時なり。親征錄に「乙西春、上歸國、自師至此、凡七年。」元史に「二十年乙酉春正月、還行宮。」喇失惕は、雞の年の春と云ひ、親征錄に同じ。多遜は、一二二五年二月と云ふ。西暦の二月は、卽 東曆の正月なり。この春 額米勒を發したりとすれば、元史の正月は早きに過ぎ、祕史の秋は遲きに過ぎたり。親征錄の春に從ふべし、合喇