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公 神︀道碑(元 文類︀ 卷 五十七)の文とは稍 異なり。又 輟耕錄にも「太祖︀皇帝、駐師西印度、忽有大獸、其高數十丈、一角如犀牛然。能作人語、云「此非帝世界、宜速還。」左右皆震懾。耶律 文正王進曰「此名角端、乃施星之精︀也。聖人在位、則斯獸奉書而至。且能日馳萬八千里、靈異如鬼神︀、不犯也。」帝卽回馭」と云ひて、至正 庚寅 江浙の鄕試に角端を賦の題とせることを載せ、又 白淇淵 先生の續演雅 十詩の發揮を引きて、「「西狩獲白麟、至死意不吐。代北有角端、能通諸︀國語」者︀、角端、北地異獸也。能人言、其高如浮圖」と云へり然らば角端の奇談は、元人の評判となれることにて、宋子貞の碑文に始れるに非ず、たゞ西印度を東印度としたるは、宋子貞の誤れるなり。角端は、司馬 相如の上林の賦に角𧤗とありて、郭璞の說に「角𧤗、音端、角在鼻上」と云へるに據れば、角端と名づけられたる一角獸は、印度の犀牛なるに似たり。又 浮圖の如く高しとあるに據れば、西 亞細亞の駝豹を指せるにも似たり。いづれにしても、蒙古人の見慣れざる獸にして、洪鈞の曰へる如く「或者︀當日軍行見此、詫爲異獸、其後展轉傳訛、遂至張符瑞」に過ぎざるなり。又 多遜の史は、一二一九年(己卯)より一二二二年(壬午)までの紀年は正しけれども、別嚕安 駐夏の後は、喇失惕に本づきてやゝその文を易へ、

​禿別惕​​トベト​の方に進みたりと云ふ說

「蒙古人は、信度 河の上游なる不牙 客惕沃兒に駐冬し、一二二三年(癸未)の春、成吉思 汗は、印度 禿別惕を經て蒙古に還らんと欲し、實にその方に進みたれども、路 險しくして行き難︀く、珀沙兀兒に回れり」と云ひ、餘は集史に同じく、只 途上の日數は、集史より一年長く、西游記より一年 短し。禿別惕 通過は、多遜の臆度に出でたりと見ゆるが故に、洪鈞 曰く「考其自注、未何人、但引元史、謂成吉思 汗 至東 印度、角端見、乃班師。玩其詞意、蓋爲元史所誤。而二十年正月還宮、則 拉施特 與他書所紀年分相同。在途歲月過多、無事可叙。乃牽引元史、以意附會、不元史此說、固不憑也。多桑著︀書時、元史已有譯本、西游記時尙未譯、故有此誤」と云へり。

​額兒的失​​エルチシ​の駐夏

​途​​ミチ​に​額兒的失​​エルチシ​に​駐夏​​チウカ​して、(太祖︀の歸路に額兒的失に駐夏したることは、他の書に見えず。こは、必ず出征の初 十四年 己卯の事を誤りたるなり。

長春の歸路

西游記に據れば、十八年 癸未の正月 元日には、長春 行在に畱まりて、將帥 醫卜 等官の賀を受け、十一日 大軍に先だちて發し、二十一日「至一大川、東北去賽藍約三程」とあるは、塔什肯篤に近き赤兒赤克 河の邊なるべし。「水草豐茂、可牛馬」に因りて、そこに盤桓したる間に、太祖︀も至りたれば、二月七日 長春 入りて見えたり。その時 太祖︀は「朕已東矣。同途可乎」と云へるに、長春 固く辭みたれば太祖︀ 曰く「少俟。三五日太子來。前來道話所解者︀、朕悟卽行」と云へり。八日 太祖︀ 東山の下に獵して馬より墜ちたりと聞き、長春 入りて 獵を諫めたれば、太祖︀は「我 蒙古 人、騎射少所習、未遽已。雖然神︀仙之言在衷焉」と云ひて、それより兩月は獵に出でざりき。かくて二十四日 再朝を辭し、三月 七日 又 辭し、十日 遂に辭し去り、その年 七月 雲中に至れり。太祖︀は猶 畱まりていつ出發したるかは記に見えず。親征錄には、たゞ「甲申班師、住冬避暑︀、且止且行」とあり。多遜の史はやゝ委しく、「一二二四年(甲申)の春、大軍 再 動き、昔渾 河を渡れり。察合台 斡歌台は、字合喇の邊に獵して來て、あまたの獲物を上れり。拙赤は、呼べども至らず、たゞ昔渾 河の北より獸を驅りて行在に向はしめ、圍獵の便に供へたり。

​赤兒赤克​​チルチク​ 河 癸未の駐夏

その夏 成吉思 汗は、喀闌 塔失の地に駐まりて、遊獵を以て日を送れり」とあり。「大軍 再 動き、昔渾 河を渡る」は、西游記に據れば、壬午の冬なり。察合台 斡歌台の獲物を上れるは、「三五日