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あり、今の英領 印度の西北の隅なり。篾里克普兒は、知らず。

印度の奴隷 王朝

印度は、西紀 千一年 噶自尼 朝の侵略を被りてより、一一八六年 誥兒の沙哈卜 兀丁は、噶自尼 朝を滅し、遂に 邊噶勒までも平げたれば、印度の過半は、抹哈篾惕 敎の國となれり。一二〇六年 沙哈卜 兀丁 死し、その將 庫塔卜 兀丁 自立して印度の王となり、迭勒希 卽 今の迭里に都︀せり。庫塔卜は、突︀兒克 人にして、もと奴隷なりし故に、この朝を世に奴隷 王朝と云ふ。者︀剌列丁の迭勒希に遁げ入りたるは、奴隷 王朝の第三世 阿勒塔姆施(庫塔卜の壻)の時なりき。

太祖︀の凱旋

そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​回​​カヘ​りて、(親征錄に「甲申班師」とあるは、八魯彎川 避暑︀の翌年にして、太祖︀ 十九年、西紀 一二二三年なり。喇失惕もそれに同じく、別嚕安 駐夏の後、「信度河の上游に駐冬し、欣都︀思壇より唐古惕の路に出でて還らんと思ひしが、山 深く 路 險しく行き難︀しと聞きて、回りて珀沙兀兒に至り、來る時 經たる路に循ひて還れり。猴の年、巴米安の山路を踰え、巴喀闌に畱め置きたりし輜重を取り、秋 只渾 河を渡り、冬 撒馬兒罕に至れり」とあり。親征錄 集史は、己卯より壬午まで四年の閒の事を一年づゝ後れさせて庚辰より癸未までとしたれば、こゝの甲申も、癸未の誤りと見ざるべからず。然らば太祖︀の師を班して撒馬兒罕に至れるは、癸未の年なりやと云ふに、また然らず。實は壬午の年に師を班して、その年の內に撒馬兒罕に至れるなり。

西游記なる壬午の回駕

西游記に、長春は、壬午の四月、欣都︀庫施 山中の行在所より還り、五月 五日 邪米思干に達し、八月 八日 二たび往き、十五日 阿沒 河を濟り、二十二日 行宮に至り、上に見え、二十七日 車駕 北に回り、九月 朔 河橋(阿沒 河)を渡り、十五日 十九日 二十三日、途に在り幄を設けて道を說き、それより扈從して行き、時時 道化を敷奏し、又 數日にして邪米思干 大城の西南 三十里に至り、十月 朔 奏して舊居に還り、上は大城の東 二十里に駐まれり。六日 上に見えて「自此或在先、或在後、任意而行」を許され、十一月 二十六日 卽 行き、十二月 二十三日 雪 寒く、又 三日 霍闡 河を過ぎ、二十八日 行在に至り、震雷の問に對へたりとあり。この記に據れば、太祖︀は、壬午の八月 二十七日 山中の行宮を發し、九月の末に撒馬兒罕に至れり。太祖︀の撒馬兒罕を發したる日は確ならねども、長春の失兒 河を過ぎて後に行在に至れるを見れば、太祖︀は蓋 長春より先に發し、その年の內に失兒 河の東に至りたること明なり。又 元史 太祖︀紀 十九年 甲申の條に

角端の奇談

「是歲、帝至東 印度 國、角端見、班師」と云ひ、耶律 楚材の傳に「甲申、帝至東 印度、駐鐵門關。有一角獸、形如鹿而馬尾、其色綠。作人言、謂侍衞者︀曰「汝主宜早還。」帝以問楚材。對曰「此瑞獸也。其名角端、能言四方語、好生惡殺︀。此天降符、以吿陛下。陛下、天之元子。天下之人、皆陛下之子。願承天心、以全民命。」帝卽日班師」とあるにつきて、程同文 曰く「蓋本於宋子貞所作神︀道碑、極以歸美文正、然非實錄也。唐書「東天竺際海︀、與扶南林邑接。」太祖︀西征、無彼。角端能言、書契所無、晉卿何自知之。讀湛然集、晉卿在西域七年、惟及尋思干止耳、未嘗出鐵門也。今讀此(西游)記、則太祖︀追算端、惟過大雪山數程、其地應北 印度。晉卿實未征、無顧問。且頒師、爲壬午之春、非甲申也」と云へり。この角端の事は、楚材の孫なる宣慰 柳溪の詩集(庶齋 老學 叢談に引ける)に「角端呈瑞移御營、塧亢問罪西域平」とありて、その自注に「角端日行萬八千里、能言、曉四夷之語。昔我聖祖︀皇帝出師問罪西域、辛巳歲夏、駐蹕鐵門關。先祖︀中書令奏曰「五月二十日晩、近侍人登山、見異獸、二目如矩、麟身五色、頂有一角、能人言。此角端也。當見所禮祭之。」仍依所言、□□則吉」とありて、宋子貞の耶律